広報紀の川(和歌山県紀の川市)

令和3年1月号

紀の川市の東端には、かつて麻生津荘と呼ばれた地域があります。現在の西脇・赤沼田・北涌・横谷・麻生津中の5地区を合わせた地域です。紀の川の南岸、龍門山系北麓の急峻な場所にあるこの地域は、その立地から歴史的に重要な場所で、今なお多くの文化財が残されています。
麻生津荘の発展には、高野山への参詣道としての「西高野街道」の形成が大きな役割を果たしていました。平安時代に創建された高野山へは、王家から庶民にいたるまで多くの人が参詣に訪れ、それに伴って街道周辺の町が発展していきます。船運が発達した江戸時代には、街道は高野山への近道として利用され、人や物が行き交い、旅人のために街道沿いに旅籠(はたご)、峠には茶屋が建てられるなど大いに賑わいます。
一方、麻生津荘が位置する龍門山系は、中世から安土桃山時代の動乱期に多くの戦いの舞台となり、当時築かれた城跡が現在でも残されています。鎌倉幕府崩壊後の不安定な政情の中、北条氏一族の残党による反乱が各地で続き、市内でもその反乱が発生しました。
龍門山系で2番目に高い飯盛山山頂には、北条氏一族を擁して近隣の豪族である湯浅党の六十谷定尚(むそたさだなお)が飯盛山城を築城。鎮圧に向かった楠木正成(くすのきまさしげ)らは苦戦し、足利高経(あしかがたかつね)が大将軍として赴任して、ようやく陥すことができました。この城は、高野山の学僧が編さんした「高野春秋編年輯録(こうやしゅんじゅうへんねんしゅうろく)」にも織田信長の高野攻め時、高野山側の主要な城の一つとして登場しています。
当地には他にも、高野攻めの際に前線防衛基地として築かれた茶臼山城(ちゃうすやまじょう)跡があります。この地の旧家として知られる篠氏によって築城され、高野7砦の一つとして戦略的に重要な場所にありました。高野攻めの戦死者を弔ったとされる石造物群は、篠家が代々守り続けており、現在でも、この戦いで活躍した多くの豪族の末裔がこの地で暮らしています。
その他にも麻生津荘は、江戸幕府をも巻き込んだ近隣地域との土地境界を巡る山論など、様々な歴史的出来事や側面をもっています。また、令和元年度には西高野街道が、文化庁の選定する歴史の道百選「高野山参詣道」に追加選定されました。
市教育委員会では、この地域に残る多くの文化財を紹介する企画展を開催します。様々な文化財を通して、自分たちの生活するまちを見直してみると、アッと驚く楽しい事に出会えるかもしれません。
※企画展の詳細は「~歴史民俗資料館企画展~麻生津荘の歴史をめぐる」の記事参照

問合せ先
紀の川市文化財保護審議会(生涯学習課内)
電話
0736-77-2511