インダス川の穏やかな水面に丸い波紋が浮かび、淡い色のイルカの頭が現れた。イルカは少しの間そこにとどまり、間もなく水中に戻って行った。

 ここはパキスタン南部の都市サッカル。インダス川のこの辺りは、絶滅危惧種インダスカワイルカの貴重なすみかだ。

 ところがイルカたちは、この町にあるバラージと呼ばれる堰(せき)によって、モンスーンシーズンの移動を阻まれている。インダス川流域では、20世紀半ばに治水や灌漑のためのいくつもの取水堰が建設され、一部は発電にも利用されている。堰はイルカたちの移動を妨げるだけでなく、取水によって川の水位を危険なレベルにまで低下させることもある。

 淡水にすむイルカは地球上に4種しかおらず、インダスカワイルカはその一つインドカワイルカの亜種とされる。かつては下流のデルタ地域から、ヒマラヤに近い上流まで、インダス川とその支流に生息していたが、今は元の生息域のおよそ20%にあたる流域にしか生息していない。そのすみかは、グドゥ堰とコトリ堰の間の660キロメートルほどの流域に集中している。

 水質汚染の問題もある。世界自然保護基金(WWF)「カワイルカイニシアティブ」のアジア地域コーディネーター、ウズマ・カーン氏によれば、イルカたちの体内からはDDTなどの農薬が検出されているという。

 一方で、流域住民への啓発や、座礁したイルカの救助といった保全プログラムのおかげで、インダスカワイルカの個体数は着実に増加しているという。WWFによると、1972年にはパキスタン国内に132匹とされた個体数が、最新の調査では1987匹と考えられている。インダス川の支流の1つでインド北部を流れるビアース川にも、少なくとも7匹の小さな個体群が生息している。

「グドゥから川を下り続けると、ある地点から周囲はイルカだらけになります。あまりにもたくさんいるので圧倒されますよ」と、カーン氏は話す。「インダス川の中で、イルカはこの流域にのみ集中しているので、大きな課題もあります」

「イルカは人間にとって友人」

 現地の言葉で「ブラン」と呼ばれるインダスカワイルカは、「大昔からこの地域にすむ、インダス文明の象徴の1つでもあります」と、シンド野生生物局のミール・アクタル・タルプール氏は話す。

 インダス川流域で花開いた青銅器文明は、計画的な都市と進歩的な排水システムで知られている。現在のシンド州およびパンジャブ州に暮らす人々は、インダス文明を作った人々の末裔と考えられており、伝統的にインダスカワイルカを大切にしている。

 この地方には、インダスカワイルカの起源にまつわる伝説がある。ある女性が川の精にバターと乳を捧げたところ、川の水が分かれて、安全に向こう岸へと渡ることができた。しかしある時、彼女が捧げものを忘れると、川の精は女性をイルカの姿に変えてしまった、というものだ。

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