2022年の夏、かつて誰も見たことのないオランウータンの行動が観察された。「ラクス」という愛称で親しまれているスマトラオランウータン(Pongo abelii)が、抗菌、抗炎症、抗真菌、抗酸化作用のある「薬草」を使って、頬にできた大きな擦り傷を丁寧に手当てしていたのだ。その様子を記録した論文が、2024年5月2日付けで科学誌「Scientific Reports」に発表された。

「わずか数日でひどい傷が治り始め、さらに2日後には傷口が完全に閉じていました」と、論文の筆頭著者で、ドイツにあるマックス・プランク動物行動研究所の霊長類学者のイザベル・ラウマー氏は話す。「薬効のある植物を使って傷を治療する野生動物が観察されたのは、これが初めてです」

 ラクスの行動は、インドネシア、スマトラ島のグヌンルセル国立公園内にあるスアックバリンビン研究ステーションを取り巻く熱帯雨林で観察された。研究センターは1994年から、周囲の保護林に生息したり、頻繁に姿を見せるオランウータンを観察してきた。動物たちに干渉することなく、あくまで見守る形で、その動きや行動を注意深く追跡、監視、記録している。

「決して彼らの邪魔にならないように数十年間観察を続けてきた結果、向こうも私たちのチームが近くにいることにすっかり慣れてしまいました。人間の存在を無視してもいいのだとわかり、完全に野生のままの姿を見せてくれます」と、ラウマー氏は言う。

 研究センターの周辺の熱帯雨林は、スマトラオランウータンが地球上で最も密集している地域だ。オランウータンの生息地は、森林伐採によって年々縮小している。そのため、本来単独行動を好むオランウータンたちが、お互いに近い場所で暮らさなければならなくなっている。

 国際自然保護連合(IUCN)の推定によれば、スマトラオランウータンは現在約1万3800頭しか生存しておらず、危機のランクを「近絶滅(Critically Endangered)」としている。絶滅の危機に瀕している類人猿の驚くべき行動を観察して共有し、彼らがどれほど特別な存在で、人間に似ているかを人々に知ってもらい、絶滅から救う取り組みにつなげられればと、ラウマー氏や研究仲間たちは期待している。霊長類学、民族植物学、生物進化人類学の分野の他の研究者も同じ思いだ。

驚きの光景

 ラクスは、2009年から研究センターのなかやその周辺で暮らしている。2022年6月のある朝、研究者たちは、ラクスの右目の下の頬に大きく擦りむいた傷があることに気づいた。

 その前に、ラクスは監視エリアの外に出て行っていたため、どのようにして負傷したのかは誰にもわからない。おそらく、木から落ちて枝にぶつかったのか、他のオランウータンと争ったときに負った傷だろうと思われる。

 いずれにしても、傷はその後数日間膿み続け、「かなり悪いように見えました」と、ラウマー氏は言う。

 3日目に、研究者たちはラクスがアカルクニン(Fibraurea tinctoria)というつる植物を探し求め、それを食べている様子を観察した。一般に傷の手当てや赤痢、糖尿病、マラリアの治療に使われている植物だ。

 わざわざアカルクニンが生えている場所まで行って食べるという行動自体が極めて珍しいと、ラウマー氏は指摘する。「私たちのデータを見ると、ここに生息するオランウータンが食べるもののうち、アカルクニンが占める割合はわずか0.3%です」

 ラクスの傷が感染症を起こしたり、発熱していたりしたら、理論的にはアカルクニンを食べることで症状は改善しただろう。ラクスがそうと理解してこれを食べていたのだとしたら驚くべきことだと、研究者は考えた。とはいえ、その時点ではまだ単なる憶測にすぎなかった。

 しかし、次にラクスが取った行動は意図的としか思えないものだった。

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