【幻の五輪代表が語る 失われた夢舞台】#8

蒲生 晴明さん(ハンドボール代表)

 ◇  ◇  ◇

「選手としても、チームとしても絶頂にいたのに」

 3大会連続で五輪の日本代表に選ばれた蒲生氏がこう明かす。

 身長192センチ、92キロの恵まれた体躯を生かしたプレーで、世界得点ランキングの上位に入り「世界のガモ」として名を轟かせた。

■メジャー競技になるチャンスだった

 だが、モスクワの地を踏むことはなかった。

 日本が出場権を得た球技は男子ハンドボールと女子バレーボールの2種目のみ。それだけに世間の注目度は高く、全試合テレビ中継が決まっていた。日本でハンドボールをメジャー競技にするこの上ないチャンスでもあった。

「1978年の世界選手権(デンマーク)では強豪国とも十分に渡り合える手ごたえを感じていました(16カ国中12位)。年齢的にも26歳という一番脂が乗った時期で私の全盛期です。ボイコットの件を聞いた時の気持ちはガッカリや残念など月並みな言葉では言い表すことができません。『本当に出られないのか』という戸惑いも大きかったです。とにかく出場したかった。五輪に出ていれば日本のハンドボール界の状況は今とは違ったかもしれません」

 なかなか気持ちを切り替えられないまま、国内大会をこなしていく中、初めてハンドボールが正式種目となった82年アジア大会(インド・ニューデリー)に挑む。

「大会は室内ではなく屋外で行われ、環境は悪いうえに気持ちも乗りませんでした。しかし、その頃の日本はアジア最強。負けられないというプレッシャーだけは大きくのしかかりました」

 結果は準決勝の韓国戦を1点差で辛勝し、決勝では中国に僅差で敗れ銀メダルに終わった。この結果を受けて監督、コーチが退任し、メンバーも半数近くが入れ替わったという。

「次のコーチや監督が決まらず、メンバーも中ぶらりん。この期間に引退する選手もいました。昔はプロがなく、選手は教員か会社員で、30歳くらいになると、役職が付いたりと仕事が大変になりますからね」

 最終的にロサンゼルス五輪のメンバーが決まったのは、予選大会のわずか半年前。チーム内で満足のいく調整ができないままの見切り発車だったが、予選を勝ち抜き、再び五輪への切符を掴み取った。

中東の笛を提訴

「五輪は12カ国中10位だったけれど、悔いはありません。『やりきった』という気持ちがすごく強かった。予選で韓国、中国との激戦を乗り越えて、チームも本当に一致団結して出場権を取り、五輪の舞台に立つ悲願は達成できましたから」

 ロス五輪後は所属先の大同特殊鋼で選手兼監督に。90年代前半には日本代表のコーチ、監督を歴任した。アラブ諸国が有利に判定される“中東の笛”が大問題になった2008年には総監督としてスタジアムに立った。

「90年代は“中東の笛”に苦しみましたよ。審判が中東寄りの笛を吹くからどんなに頑張っても結果は決まっていました。遠征先の空港へ降り立った時に関係者から『日本は4位』と言われ、本当にそうなるんです。これが10年以上続いていた。だから私が強化委員長になった時になんとか変えようと思い、08年北京五輪アジア予選ではスポーツ仲裁裁判所まで行って予選のやり直しにこぎつけました」

 再試合の参加国は日本と韓国のみ。異例のやり直しに1万人を超える観客が代々木体育館へ押しかけた。スタンドの観衆が息をのんで見守る接戦の末、25対28で惜敗。しかし、それ以来“中東の笛”がコートに響くことはなくなったという。

 選手として、監督として辛酸をなめ続けてきた蒲生氏は東京五輪延期を受け、現役選手たちにエールを送る。

「1年後に向かってチャレンジするしかありません。代表になるのは容易なことではありませんが、選ばれた選手たちは格好いいパフォーマンスを見せてほしい。選手自身も楽しみながらケガに注意して、モチベーションを保ってほしい」

▽がもう・せいめい 1954年4月5日生まれ。東京都府中市出身。中央大学付属高校から中央大学へ進学。4年生でモントリオール五輪へ出場。80年モスクワ五輪で代表入り。84年ロス五輪に出場。日本リーグ8回優勝。日本ハンドボールリーグ得点王6年連続6回。引退後は日本代表監督を経て、現在は中部大学で人間力創成総合教育センター教授を務める。