【幻の五輪代表が語る 失われた夢舞台】#9

長崎宏子さん(競泳平泳ぎ 100m・200m)

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 小学1年生の夏から軽い気持ちで始めた水泳。平泳ぎだけはなぜかよく褒められ、うれしさからそればかりを練習していた。

 体の成長もあり、泳ぐたびに自己ベストが更新され、小学5年生になる頃には地元の大会では負け知らず。めきめきと頭角を現す長崎さんにコーチは翌年に迫ったモスクワでの「五輪を目指そう」と言った。

 しかし、日本代表の選考大会に出るためには当時の12歳以下の大会では種目になかった、200メートルの記録が必要だった。

「記録のために岩手県で開催された年齢制限がない大会で年上の選手たちに交ざり、初めて200メートルに挑戦しました。そこで、他国のモスクワ五輪出場予定選手たちの中でも2番目にあたる記録を出して優勝しちゃったんです」

 日本人史上初となる、「小学生夏季五輪代表」の期待を一身に背負い、迎えた6年生の春。長崎氏は五輪代表の選考レースを兼ねた5月の日本室内選手権を2位で突破し、最終選考にあたる6月の日本選手権に向けて準備をしていた。そんな矢先、日本のボイコットが決定した。

■「東京に行ける!」

「正直、12歳の私は五輪に出られなかったことをあまり気にしていませんでした。日本選手権は通常通りに開催されたため、純粋だったのか『東京に行ける!』とそちらを楽しみにしていました」

 その日本選手権を12歳で制し、ナショナルチームに選ばれるとハワイ、カナダに遠征。初めて経験する国際大会で世界のトップスイマーの実力を目の当たりにした。

「この頃から“五輪”を意識し始め、4年間の計画を立てて真剣に練習するようになりました。負けず嫌いだったのでしょう。『水泳だけしか能がない』『脳まで筋肉』などとバカにされないように勉強もしっかりやりました。中学校では特に英語の授業は先生の言葉を一言一句漏らさないくらい真剣に受けました。小学生時代の海外遠征で英語を話すチームメートを見て、強烈な憧れを抱いたからです」

 文武両道を貫き、県下有数の進学校、秋田北高校に入学。そしてこの年、200メートル平泳ぎで5年連続の日本選手権優勝を果たし、金メダル有力候補としてロサンゼルス五輪の大舞台に立った。

 前年のプレ五輪で日本人初優勝を果たした200メートルでは最初のターンを1位で通過。しかし、後半は伸びなかった。結果はまさかの4位。レースを終えてテレビカメラの前に立つと、涙ながらに「すみません」と絞り出すのが精いっぱいだった。これまで“とんとん拍子”で歩んできた順風満帆の競技人生で、生まれて初めて味わう挫折だった。

「モスクワ五輪当時はボイコットのことを気にしていなかったのですが……。今思い返すと、あの時に五輪特有の雰囲気や、重圧を感じていれば、ロス五輪の結果は違ったかもしれません」

 失意の帰国から約1年後に高校を中退。自身のこれまでの人生と将来のことを考え、アメリカ留学を決めた。単身で渡ったアメリカでは言葉の壁にぶつかりながら大好きな語学を学び、同時に水泳も続けた。そうして1988年のソウル五輪に出場したが、中学3年時に出した自己ベスト(当時の日本新記録)よりも約7.5秒遅い、2分37秒44で予選敗退となった。

 ソウル五輪後は留学先のカリフォルニア大学バークリー校、ブリガムヤング大学に在籍しつつ、88年から91年まで、全米学生選手権大会200メートル平泳ぎで連続優勝を収め、92年に選手人生を終える。

■サラエボ支援活動

 引退後はJOC(日本オリンピック委員会)に勤務。停戦直前のサラエボの子供たちのため、スポーツ大会の運営や日本への招待などさまざまな支援活動を行った。

 現在は日本で唯一の“オリンピックスイマーが教えるベビースイミング教室”を運営。

「ベビースイミングはもともとは欧米の文化ですがアジアでも注目され始め、最近は中国や韓国からもオファーをいただいています」

 今も小さな生徒たちと汗を流している。

(おわり)

▽ながさき・ひろこ 1968年7月27日生まれ。秋田県秋田市出身。80年モスクワ五輪代表。84年ロス五輪200メートル平泳ぎ4位。88年ソウル五輪予選敗退。引退後に日本オリンピック委員会を経て、スポーツコンサルティング会社「ゲンキなアトリエ」を設立。98年「ベビーアクアティクス」を運営。以来、ベビースイミングの発展に尽力している。