3月11日で東日本大震災の発生から9年の時が刻まれる。日本記者クラブ取材団の一員として日刊スポーツ文化社会部の大上悟記者(58)が2月上旬、福島第1原発の敷地内に入った。廃炉へ向けての道のりは険しい。核燃料棒の除去、汚染水の処理、除染土の中間貯蔵施設など難問は山積している。現地の今をリポートする。

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2011年3月12日、津波に見舞われた福島第1原発1号機は水素爆発事故を起こした。敷地内の高台から望む1号機は今も、むき出しとなった鉄骨がゆがみ、さびたままだった。約80メートルの距離で放射線量は毎時130マイクロシーベルト。約25分間の屋外取材による被ばく量を東京電力(東電)は「歯科のエックス線検査2回分ほど」と換算する。許容範囲であるが「2度連続でエックス線検査を受けた経験はない」と率直に思った。自前の線量計は東京都内では経験したことがない赤ランプの点滅と警報音が鳴り響いた。

汚水タンクエリアでの放射線量は毎時100マイクロシーベルト、移動の車中は毎時46マイクロシーベルト。年間に1人当たりが浴びる自然放射線量は約2・1ミリシーベルトだけに決して低数値ではない。

構内には1日平均4000人以上の作業員が従事するが、通常の作業服でヘルメットやマスク、手袋のない人もいる。取材陣は安全のためヘルメット、防じんマスク、手袋、ゴーグルを着用した。事故当時は全身防護服で厳重ガードしたが、安全面の向上もうかがえた。施設内には食堂やコンビニも常設されていた。

隣接する汚染土の中間貯蔵施設まで車を走らせると、主なき家屋が点在する。9年前の緊急避難で放置されたままと思われる室内干しの洗濯物が見えた。

枯れ木にコンビニ袋が、しがみついていた。ところどころに穴が開き、除染対象外の場所だけに放射線量は低くはないだろう。いずれ風に流され、どこまで飛んで行くのだろうか。施設内にある宅地などの地権者約7割は権利を譲渡したが約3割は拒んでいる。望郷の念は風化しない。復興五輪カウントダウンに入った首都圏への電力供給を担った現地には、今も冷たい海風が吹き抜けていた。【大上悟】