球界のドンとして君臨し続けた野村克也氏。野球についての知識はもちろん、豊かな人間味で多くの思い出と財産を残した。歴代の担当記者が悼む。

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野村さんが亡くなった。そう聞いた時、真っ先に思い浮かんだのは数年前、最後にお会いした時のことだった。「お前ほどイジメたったヤツはいてないなあ。今更仕返しなんかするなよ」と言って笑った。鈍感な私は、実はいじめられた自覚はあまりない。

南海担当になったのは1973年(昭48)。南海が最後の優勝をした年だ。監督で4番捕手。飛ぶ鳥を落とす勢いだった。本当かどうかは確かめられなかったけれど、月に1度の月給日、野村さんの給料袋は1万円札の札束が縦に2つ立っていたという。大体300万円で縦に立つそうだから、総額ざっと600万円。しかも税引き後だから、年俸1億円を軽く超えていたのだろう。

そんな大物相手に若輩者が生意気な記事を書き続けたので、ずっと無視された。飲みに連れていってもらったり、マージャンはしてくれたが、野球のことは何を尋ねても知らぬ顔。数年…どころか野村さんが南海を退団する77年頃まで続いた。おかげで反野村派(これがやたら多かった)にはかわいがってもらい、いろいろと教えてもらったもので、それが記者生活にどんなに大きな財産となったか。

「考える野球」は、当時ヘッドコーチのブレイザーが提唱した「シンキング・ベースボール」の焼き直しではないか、と思っていたこともある。しかし、前期優勝(パは73年から2シーズン制を導入)を果たし、後期は全盛期の阪急に0勝12敗1分け。夏場の休養日に大阪球場をのぞくと投手陣がひそかに小さなモーションで投げる練習をしていた。阪急福本選手の足を封じ込めるクイック投法だった。肩が衰えていた野村さんが窮余の策として編み出したクイックは、その後日本はもとより大リーグでも取り入れられた。

創意工夫の鬼だった。今も昔もベンチやピンチのマウンドに相手が集まって作戦会議を行う。野村さんを控え捕手として支えた柴田猛さんが読唇術を学び、相手の会話を全て読み取った。これもまた世界中の野球で、試合中はグラブや手で口を隠して会話する習慣となって今に生きている。「考える野球」の武器は技や力ではなく、考え得ることを総動員した頭脳戦だった。ちなみにクイックモーションの効果はどうだったか。実は阪急とのプレーオフは福本さんの活躍を許さず、南海は最後の優勝を飾ったのだった。

余談だが、南海の担当記者とフロントは毎年、大阪球場で軟式の草野球をした。ある時、野村さんが飛び入りで参加した。私は捕手。投げていたのは阪神投手から記者になった本間勝さんだった。打席に入るなり「お前の配球、全部分かるぞ」。これが世にいう野村さんの「つぶやき戦術」か、と感激した。次の瞬間、初球の「カーブ」を「カーブ!」と叫ぶつつ右中間フェンスへ直撃させ、二塁塁上で満面の笑みを浮かべた。

「野球」と聞けば、草野球でさえ真剣になる人柄に恐れ入ると同時に親しみと尊敬の念がわいた。

書きたいことはヤマほどある。鶴岡親分や南海ホークスに対する誤解、離反していった人たちのさまざまな思い…。ただ晩年の野村さんはそれらもろもろを実は理解していたのではなかったか。最後に会った日、野村さんは「あの頃(南海時代)が一番楽しかったなあ」とつぶやいた。【73〜80年南海担当 井関真】