球界のドンとして君臨し続けた野村克也氏。野球についての知識はもちろん、豊かな人間味で多くの思い出と財産を残した。歴代の担当記者が悼む。

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マスコミの野球報道を変えたのもノムさんだった。野球のおもしろさ、奥深さにスポットライトが当たるようになった。試合経過をメインに選手の裏話、秘話を取り込むのが主流だった野球報道を、ノムさんの表舞台登場が一変させた。

80年代、週刊朝日での連載「野村克也の目」の切り口は新鮮だった。采配、配球、駆け引き、だまし合い…素人にも理解できるようかみ砕いた、理路整然とした野球論、野球の見方はそれまではなかった。

テレビ朝日の中継では「野村スコープ」が登場した。今では当たり前の画面スミのライブでの配球表。解説しながら自らデータを打ち込む初の試み。配球表を使い、なぜ打たれたを分析し、次の投球も予測してみせた。マスコミも選手のプライベート報道から、野球そのものに向くようになっていった。

90年ヤクルト監督に就任すると、知識をチーム、マスコミに惜しげもなく披露し、野村野球は一気に花開く。代名詞のID野球。緑の公衆電話の硬貨投入口にあった「INSERT COIN」の表記からヒントを得た「ID(インポート データ)」。単純な単語とともにデータを駆使する野球の奥深さ、おもしろさが世間にも浸透していった。

92年。優勝紙面用にと表に出ることのなかった実兄に原稿を依頼したことがある。ノムさんと沙知代夫人の許可を掲載の条件に、封をされた原稿を預かった。原稿を手に「元気そうだったか?」と実兄の様子を気にしながら、読み入る。「新聞に載せるのは勘弁してくれ…」。原稿をバッグにしまう時、涙がほおを伝っていた。

野球を離れた人生は理路整然にはほど遠かった。最大の理解者である沙知代夫人を立て、多くの「過去」と距離を置いていた。17年に沙知代夫人が他界し、一気に年をとったように見えた。昨年、テレビ番組で実兄と再会を果たしていた。その行動には何かを覚悟したように感じた。虚血性心不全。沙知代さんとおなじ死因だった。【91〜93年ヤクルト担当 井元秀治】