プロ野球南海(現ソフトバンク)で捕手兼任監督を務め、ヤクルト、阪神、楽天でも指揮を執った野村克也(のむら・かつや)さんが11日午前3時半、虚血性心不全のため死去した。84歳だった。

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ヤクルトを3度日本一に導いた名将野村は98年12月、長期低迷していた阪神に三顧の礼で迎えられた。オーナーの久万俊二郎から「阪神はどん底。野村さんしかいない」と再建を託された。

「野球人たる前に社会人たれ」。意識改革からはじめ、自らの経験と知識をまとめた「野村ノート」を手に、キャンプで毎晩ミーティングを行った。三振の多かった新庄剛志の改造にも着手。「投手心理を勉強させたい」と二刀流プランをぶち上げ、99年のオープン戦で登板させた。新庄が巨人槙原の敬遠球をサヨナラ打したのはこの年だった。

人材難に知恵を絞り、00年は打者の左右で一塁と投手を入れ替える遠山−葛西−遠山のスペシャル継投。横手にした遠山は松井秀喜キラーで再生した。歯に衣(きぬ)着せず、球団批判も恐れない「野村語録」は時に選手と衝突したが、本音満載の阪神名物になった。

だがチーム成績は上がらなかった。選手層の薄さは補い切れず、外国人補強にも恵まれなかった。まさかの3年連続最下位。それでも球団は4年目に期待して続投を決めたが、沙知代夫人が01年12月に脱税事件で逮捕され、辞任を余儀なくされた。深夜に球団事務所で会見し「私の力でチームを立て直せなかったことは心残り」と寂しく去った。

阪神での3年間は名将の晩節を汚したとも言われた。それを否定したのは野村も次期監督に推薦したという星野仙一だった。「ノムさんが種をまいて育ててくれたんや」。野村の「考える野球」は水面下で浸透。ベンチでボヤキを聞いていた矢野輝弘が、長らく不在だった正妻に成長していた。野村は人材難を補うべく、自ら社会人野球に足を運んで00年ドラフト指名候補を視察。赤星憲広や藤本敦士、沖原佳典らの選手を発掘した。3人は快足の「F1セブン」に名を連ね、03年Vメンバーに成長。井川慶や藤川球児、浜中治らの高卒入団組もじっくり育て、後の中心選手になった。

野村は久万にも堂々ともの申した。「4番とエースは育てられない。育ったのは掛布ぐらいじゃないですか」と積極補強を進言。球団の金庫を開けさせるきっかけをつくった。片岡篤史のFA補強やジョージ・アリアスの獲得は野村遺産で、彼らも03年のV戦士となる。スポットは花を咲かせた星野に当たる。だが野村の地道な耕作がなければどうだったか。若手を育てて芽吹かせ、積極補強の道筋もつけての辞任。虎でも「月見草」だった土台作りがあり、2度の優勝があった。(敬称略)【松井清員】