感情的な物言いは嫌われがちだ。誰だって思いつきでどなられたり、穏やかではない声を聞かされたりするのはうれしくない。でも、あまりに感情を伴わない声も、心に響いてこないものだ。

ここ30年ほどの歴史を振り返って、この1年間ほど、各国の政治リーダーが真顔でじかに国民へ語りかけたことはなかった気がする。ましてや景気や選挙とは違って、国民の生命そのものに関して、演説をふるった例はほとんど記憶にない。それだけに様々な語りかけのスタイルを見聞きする、貴重な機会ともなった。

新型コロナウイルスへの感染対策を訴える演説のうち、際立って評価の高いのは、ドイツのメルケル首相が2020年12月に連邦議会で述べた演説だろう。クリスマスを控えたタイミングでの演説で、「祖父母と過ごす最後のクリスマスになってしまうなんてことは、あってはなりません」と、不用意な会合・会食にくぎを刺した。遠回しではあるものの、かなりはっきり「死」のリスクを伝えている。しかも身近な家族の死についてだ。

その前段の演説でも、1日の死者が過去最多の590人に達した事実を示したうえで、「私たちが払う代償が、1日590人の命だとしたら、決して容認できるものではありません」と、声を震わせて国民に感染対策の徹底を呼びかけた。時に両手の拳を握り、声を張って、泣き出さんばかりに感情をあらわにしていた。

もともとは落ち着いた物腰が持ち味の人物だ。むしろ、冷静沈着がすぎるぐらいのポーカーフェースぶりで知られてきた。それだけにこの演説は事態の深刻さを印象づける効果があった。

だが、この日のメルケル演説が評価されるのは、高ぶった感情の発露だけが理由ではない。コロナ禍を軽視するかのようなやじを受けて、科学的知見の大切さを説き、哲学的な欧州史を語ったことも識見の高さを示している。もともと理論物理学の博士号を持つ科学者だ。具体的な数字を盛り込んで、客観的な事実に基づいて語る態度にも知性がにじんでいた。

ただ、専門家の提言を織り込みながらも、下駄を預けてはいない。あくまでも「私は」と、主語を明確に示し、発言の責任をきちんと自ら引き受けている。「専門家会議の検討結果に従って」といった安易な逃げ口上は打っていない。「ドイツ政府は」でも「国家は」でもなく、「私は」と言い切るいさぎよさ。難局にあって、リーダーに求めたいのは、こういう覚悟だろう。

英国のジョンソン首相も、コロナ禍で発言が目立つリーダーの一人だ。メルケル氏とは違って、こちらは日ごろから割と感情を表に出すことが多い。3度目のロックダウンを発表した演説では、沈痛な面持ちで事態を説明した。この演説はテレビカメラに真正面から向かって、同首相が語りかける形式。変異種が見付かった状況を述べ、国民に理解と協力を求めた。

深刻な内容だけに、声は抑えたトーンだが、抑揚には富んでいて、カメラをまっすぐ見据えた視線ともあいまって、説得力は十分。苦渋の選択だということは、時に抑制しきれない声の調子からもうかがえる。安っぽく感情を爆発させるのは、メッセージを薄っぺらくみせてしまいがちだが、自然にあふれ出すような気持ちの発露は、言葉に程よくリアル感や真剣さを上乗せしてくれる。