「何が起きたのか」まるで地獄絵図 救援列車の元車掌、忘れられぬ光景

「何が起きたのか」まるで地獄絵図 救援列車の元車掌、忘れられぬ光景

 1945年8月9日、原爆で焦土と化した長崎市を目指し、けが人を運ぶ「救援列車」が国鉄長与駅(長崎県長与町)を出発した。車掌を務めた瓦田一生さん(94)=佐賀県多久市=は負傷者でごった返す列車の光景を忘れることはない。「戦争だけは駄目だ。原爆だけはもう使わんでくれ」。原爆投下から72年、思いはずっと変わらない。

 当時22歳。国鉄職員として午前11時2分、長崎駅近くにあった車掌詰め所の2階にいた。突然、青白い光で何も見えなくなり、ごう音に包まれた。窓ガラスは吹き飛び、天井は落下。気が付くと机の下に潜っていた。「何が起きたのか」。胸にけがを負ったものの、動くことはできた。

 焼け落ちた長崎駅の機能を郊外へ移すため、職員2人と共に約10キロ離れた長与駅を目指した。午後1時ごろに出発し、火の手が上がる箇所を避けて線路を歩き、何とか2時間半で到着。ホームに入ってきた下り列車を「救援列車」として走らせることにした。乗り込んで市街地方向へ。だが、爆心地まで約1キロの地点に来ると、線路が壊れ、もう先へは進めなかった。

 限界点−。そう呼ばれた場所で列車を止めると、われ先にと負傷者が乗り込んできた。やけどの水ぶくれで皮膚が垂れ下がった人たち。皆、衣服が焼け焦げて裸だった。あっという間に満員となり「次の便に」と頼んでも、次々にドアの手すりにしがみついてきた。

 車掌として最後に乗り込んだ。すし詰めの車内で、見回り業務などできるはずもなかった。まるで地獄絵図。それでも使命感だけで列車を走らせた。原爆とは知らず、放射線の影響など考えもしなかった。

 列車は病院に近い諫早駅や大村駅の間を往復した。長崎市発行の「長崎原爆戦災誌」(2006年)によると、当日だけで4本が運行され、3500〜4千人を運んだ。車内や到着駅で絶命した人も多かった。

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