ミッドウェー海戦から帰還後も他の兵士が戦地に赴く中、永留久恵さんは戦地には召集されず、佐世保海兵団で少年兵たちを教えた。1945年の終戦は故郷・対馬の小学校で迎えた。

 教育現場は敗戦をきっかけに、がらりと変わる。自らを「軍国少年」に育てた要因の一つでもある教科書は、皇国史観に基づくような記述は墨塗りに。歴史教育に関しては全ページが使えないと判断され、社会科も教えた永留さんは自らの知識や体験で授業した。

 永留さんの次男史彦さんは「戦後教育が、教師が自ら手探りで教材を研究しながら行われていた顕著なケース」と語る。教科書がない中で、永留さんは授業で子どもに教える一助にしようと、出張時などに、その土地の史跡や文化財をよく訪ねて歩いた。遺跡や古文書の調査にも加わった。

 これらの活動が、歴史研究者として幅を広げた。

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 永留さんは55歳で退職するまで教師の傍ら、地元の教職員組合から委嘱されて「新対馬島誌」の編さんに携わり、著書や論文で対馬の遺跡や民俗を紹介。さらに日本と朝鮮半島のはざまで、対馬が果たした歴史や文化的な役割の研究も続け西日本文化賞も受賞した。

 研究を続ける中で、その崇高さに感銘を受けたのが、江戸時代に朝鮮との親善交流に尽くした対馬藩の儒学者雨森芳洲だ。芳洲が貫いたのは「誠信外交」。相手国の事情をよく理解し「互いに欺かず、争わず、真実を持って交わる」というものだ。かつて、韓国の盧泰愚大統領もその理念を高く評価した。

 国内ではよく知られていなかった芳洲の存在を高めるため、90年に地元の仲間と顕彰組織「芳洲会」を結成。初代会長として碑を建てただけでなく、県主催による外交塾の開催にもこぎ着け、日韓の若者に両国の歴史や今の関係を学んでもらう取り組みも行った。

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 生前、永留さんは国同士のあり方について「愛国心は必要だが、その愛国心同士が衝突しないよう、お互いが理性を持つのが肝要」と語っていた。

 日韓交流をたどると、朝鮮通信使が往来した江戸時代、260年間にわたって両国は一度も戦争をしなかった。永留さんはその著書で「文化交流は(国同士が戦争を避けるという観点で)国防上からも大事な意義があった」と記す。

 しかしいま両国は、韓国からの対馬訪問が激減するなど、政治的対立とコロナ禍の中で交流がほぼ途絶えてしまった。世界に目を転じても、主要国の指導者たちが愛国心をむき出しで他国を蔑視する風潮がまかり通る。いつ緊張関係が生まれても不思議ではない。

 永留さんが生きていたらどう見るだろうか。史彦さんは語った。「こういう時代だからこそ、芳洲が唱えた言葉の重みを指摘するはず。国の違いを超えて相手のことを敬う心を持ってほしいと願うのではないか」

 (平江望が担当しました)