桐生祥秀が見据える9秒台の先とは。「究極のかけっこで一番になりたい」

桐生祥秀が見据える9秒台の先とは。「究極のかけっこで一番になりたい」

平成から令和へ——新時代を迎えるにあたり
今後の夏季・冬季五輪で主役を担うアスリートに話を聞いた。
陸上競技界の顔である9秒台スプリンターは、
昨季の不調を越え、心身両面で新しい試みを始めていた。
笑顔の似合う23歳が秘めた、ハングリー精神に迫った。
Number977号(2019年4月25日発売)の特集から全文掲載します!

 早くシーズンを終えたい——。

 それが昨年秋の、桐生祥秀の偽らざる本音だった。

 昨季、アジア大会でリレーチームの3走として金メダルを獲得したものの、桐生の立ち位置はリレー要員。本職である100mなど個人種目では出場すら叶わなかった。

 タイムを見ても、9秒台はおろか10秒0台の計測も一度もなし。高校3年時からつねに0台で走ってきた桐生にとっては想定外とも言える結果で、傍目から見ても不調に喘いでいるのは明らかだった。

 つまずいた要因はどこにあるのか?

 2年前のシーズンまで時を巻き戻せば、不調に至った原因が見えてくる。

「9秒98」後にあった難しい時期。

「9秒98」

 2017年9月9日、福井で行われた日本インカレ100m決勝で、桐生は日本人として初めて9秒台をマーク。この快挙には陸上ファンだけでなく、多くの人々が熱狂した。

 メディアの取材が殺到し、アスリートに贈られる賞の受賞も相次ぐ。公私ともに多忙を極める中、桐生は10月末までレースに出続けた。学生最後の年、仲間と少しでも長く競技を続けようとした結果だが、冬季練習への移行が例年に比べて遅くなった。そこに落とし穴が潜んでいた。

 冬季の取り組みの成否は、次なるシーズンの結果に直結する。昨年2月にぎっくり腰を発症した影響もあり、桐生は十分に練習を積めたという実感がないままにプロ1年目のシーズンを迎えてしまう。

 春先からいっこうに調子が上がらず、日本選手権はまさかの3位でアジア大会の個人種目出場を逃す。9秒台を出した後、桐生は「今後は10秒台ではため息が出ることになる」と語っていたが、スタジアムの空気はまさにその通りになった。「早くこのシーズンを終えて練習がしたい」と思ったのも、無理はなかっただろう。

「栄養面、けっこうな進歩(笑)」

 そんな反省を踏まえた上で、桐生はこの冬をどう乗り越えてきたのか。今季の話になると、桐生の舌は滑らかになる。

「まずケガなく入れたことが良かったです。ぎっくり腰になることもなく継続して冬季練習ができた。走り込みもしたかったし、筋トレもしたくて、早めにシーズンを終えたのも良かったですね。去年は余分な脂肪がついているようで、走っていても重たいなという気がしたけど、今年は重くない。使える筋肉が増えたという感じです」

 練習拠点である母校・東洋大で行われた公開練習を見ても、接地時間の短い、飛ぶような走りが戻ってきている。肉体も昨年とは明らかに違い、上半身ががっしりし、全体に引き締まった印象だ。体重は1kg増えたが、体脂肪は逆に2%ほど減ったというから、肉体改造の成果が現れてきているのだろう。社会人生活も2年目を迎え、食生活も改善したという。

「朝ご飯をしっかり食べるようになりました。前まではヨーグルトとパンとか簡単なもので済ませていたんですけど、今はしっかり栄養のことを考えてます。威張れることではないけど、僕にとってはけっこうな進歩(笑)。しっかり食べるとやっぱり練習中も元気ですね。お腹が減らないし」

200mの自己記録も6年振りに更新。

 食事でケガのリスクが減るならもっと早く改善しておけばとも思うが、裏を返せば桐生にはまだたくさんの進歩の余地が残されているということだろう。

 冬季練習をしっかりと積んだ今季は、初戦からキレのある走りを見せつけた。

 3月23日、オーストラリア合宿の締めくくりにブリスベンの競技会に出場すると、100mの2レース目で10秒08と早くも去年のシーズンベスト(10秒10)を更新。200mでも自己記録を6年振りに塗り替え、両種目で今秋開催予定の世界選手権の参加標準記録をクリアした。競った相手を最後に振り切った100mのレースは、内容的にも進歩を窺わせるものだった。

「まだ1本走っただけですけど、今年は落ち着いてレースに挑めてます。去年も落ち着いていたけど、落ち着きすぎていて気持ちが全然盛り上がらなかった(苦笑)。ブリスベンのレースは一回抜かれたのもわかっていて、それでも気持ちが空回りすることなく冷静に行けた。久しぶりに走りきった感じがありました」

あえて欲しいものを口にする。

 桐生は今季から新たにメンタルトレーニングを取り入れている。陸上界とは異なる分野の第一人者と話をし、成功体験や失敗体験を聞くというもので、本人がやりたいと望んだことだという。まだ数回しか実践していないため、今回の結果にどう結びついたかを判断することは難しいが、良い気分転換になっているのは間違いないだろう。

 それに比べて「気持ちが盛り上がらなかった」という昨季はどこに問題があったのか。やはり9秒台を出したことで、気持ちが落ち着いてしまったのだろうか。

「それは……やっぱ言わない(笑)」

 桐生は一瞬間を空けて、こう答えた。そこをなんとか、としつこくせがむと、意を決したように語り出す。

「欲しいものを、全部買っちゃったんですよ。それで一時的に欲しいものもなくなって、ハングリー精神が薄れていたのかもしれない。プロは活躍すればお金が入るし、活躍しないともらえない。すごくシンプルです。

 今はまた自分の中に欲しいものが出て……なんか邪念のかたまりみたいな話ですけど(笑)、そういうのを口にしないアスリートって多いじゃないですか。でも僕は言っても良いと思うし、それが1つのモチベーションなのは確か。もちろん速く走れたら楽しいし、お金がすべてというわけではないですけどね」

 あまりの飾らなさに思わず笑ってしまったが、プロアスリートが稼ぐことをモチベーションにするのは至極当たり前のことだ。

「色々考えますし、想像もしますけど」

 桐生が練習をしていると、陸上部の後輩たちが自然と話しかけ、それに笑顔で応じる姿をよく目にするが、嘘偽りのない人柄が彼らを惹きつけているのがよくわかる。

 シーズン初戦を良い形で入り、いやが上にも期待は高まるが、今季の目標をどこに置いているのか。4月にはアジア選手権、5月は横浜で世界リレー、そして9〜10月はドーハ世界選手権と大きな大会が目白押しだ。年が明ければ、いよいよ東京オリンピックも近い。そこに至る青写真を、桐生はどう頭に描いているのだろう。

「色々考えますし、想像もしますけど、どう思っているか……それを言葉にして伝えるのは今の僕には難しいですね」

「9秒8台を目指してやっていく」

 桐生は過去のインタビューを例に、自分の思いやレース時の感覚を正確に言葉に置き換えることの難しさについてこう語る。

「例えば9秒98を出したときも、結果が出た後に言うからタイムが出た理由もそれっぽく聞こえるけど、自分の中には感覚として残っていないんです。後付けと言えばそうだし、僕は基本、取材ではいま思っていることを正直に答えたい。つねに成長していたいから、同じ問いかけに毎回違うことを言うのもありだと思ってます」

 9秒98を出したあの日、桐生は必ずしもコンディションが万全なわけではなかった。左太腿に違和感があり、出場自体を見送ろうかと考えていたほど。にもかかわらず、本番では力強い走りが実現できた。感覚が残っていれば正確な分析もできるが、なぜあのタイムが出たのか、理由がわからないというのが正直なところのようだ。

 桐生は9秒台を出した後、次の目標が9秒8台であることを公言してきた。その目標にブレはないのだろうか。

「目標タイムは変わらないです。感覚的には近づいてきていると思うし、誰かにムリでしょと言われても、僕の目標は僕が決めるので。確かにまだ9秒台は一度しか出せていないけど、次は9秒8台を目指してやっていく。東京五輪の決勝に残ることを考えると、このタイムは必要なので」

 ふと口に出した言葉は、重かった。

リレーよりも100mに軸足を置く。

 桐生の目標は記録ではなく、あくまでも世界で勝つことなのだ。2020年の東京オリンピックでは100mのメダル、表彰台が常連になりつつある4×100mリレーでは金メダルだって夢ではない。桐生がより軸足を置くのはどちらなのか。

「もちろん、100mです」

 即答だった。そして、続ける。

「四継は100mがあるからやっていることで、もし100mがなくてリレーだけが種目として残ったら、僕は陸上を辞めると思う。リレーも大事だけど、そのために陸上をやっているわけではないので」

「言ってしまえば遊びですからね」

 桐生の原点——それはかけっこで勝ったときの喜びにある。横一線にスピード自慢が並び、純粋にスピードを競い合う中で一歩先に抜きんでる喜び。いまだにそれに勝る快楽はないというのだ。

「言ってしまえば遊びですからね。誰が一番速くゴールできるかを競う、究極のかけっこ。だから速い人と走った方が楽しいですし、負けて色々言われますけど、負ける緊張感がないと走っていても楽しくない。記録だけを追うなら、レースではなくてただの記録会で良いので」

 前回のリオ五輪は予選落ちだった。2017年のロンドン世界選手権も国内の激しい選考レースに敗れ、個人種目での出場は叶わなかった。桐生は大舞台に弱いとの声もあるが、それを笑い飛ばせるのも本人に許された特権だろう。

「チーム桐生」の陣容は強固に。

 土江寛裕コーチとのタッグは6年目に入り、両者の信頼は厚い。昨年から新たに元短距離選手で五輪経験を持つ小島茂之を専任コーチとして迎え、「チーム桐生」の陣容はより強固になった。故障が減り、トレーニングの成果が出つつある今、問われるのはやはりメンタルの強さではないか。

「やる気の問題ですね、けっこう」

 桐生の自己分析はこうだ。

「大舞台だから自然とスイッチが入るかと言えばそうじゃない。大きな大会に出てテンションが上がることもあれば、全然盛り上がらないこともある。これはナゾですね、自分でも(笑)」

 実戦を重ね、理想の走りを追求していく中で、気持ちを上げるスイッチを探すこと。出力の高いエンジンを作りあげることも大事だが、同時に優れた点火スイッチを手に入れることで、桐生の走りはまた一段と加速力を増すはずだ。

 つい最近、桐生はこんなことを言って、両コーチを驚かせた。

「自分がもし0.01秒でも速く走れるようになるのであれば、何でもやります」

 プロ2年目の覚悟と、これまであまり口にすることのなかった強い意思表示。桐生の“本気”が見られるのはむしろこれからなのかもしれない。

 100mにおける0.01秒は距離にしてわずか10cm。短くて遠い距離だが、高校3年生でいきなり10秒01のタイムを叩き出し、追い風参考記録ながら2015年の春先に9秒87で走った桐生ならば、また易々と自身の持つ日本記録を更新してくれるのではないかという期待もある。

 桐生は言う。「自分に一番期待しているのは多分、僕です(笑)」

 今季、2度目の9秒台がいつ出ても、なんら不思議ではない。

(Number977号[9秒台フィーバーを超えて]桐生祥秀「究極のかけっこで一番になりたい」より)

文=小堀隆司

photograph by YUTAKA/AFLO SPORTS


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