引退決意の坪井慶介が無名だった頃。恩師が明かす大学時代の挫折と覚醒。

引退決意の坪井慶介が無名だった頃。恩師が明かす大学時代の挫折と覚醒。

 1997年秋。福岡大サッカー部の練習に、1人の高校生が参加した。

 三重県の名門・四日市中央工業高(四中工)の坪井慶介は、法政大への進学を目指してセレクションを受けたが、不合格となっていた。当時、四中工の監督を務めていた樋口士郎氏(現ヴィアティン三重・強化部長兼アカデミーダイレクター)は、福岡大サッカー部の乾真寛監督に連絡を取り、「見てもらえないか」と坪井の練習参加を打診する。

「坪井慶介と言われても、存在すら知らなかったんですよね」

 '84年に福岡大のコーチとなり、'90年から監督を務めていた乾氏は、そんな感じだったと振り返る。だがその無名の高校生は、当時福岡大2年でのちに日本代表にも選ばれるFW黒部光昭と練習でマッチアップすると、真っ向勝負を演じてみせた。

「ステップワークも含めた対応力が高く、普通の高校生なら苦戦するはずの大学生を相手に、しぶとく食らいついていました。これは面白い選手だと思ったんです」

成長を後押しした黒部の存在。

 乾氏は、面接したときの姿が今も忘れられないという。

「現在と同じように、目をキラキラと輝かせていて。『自分には高校からJリーグに行ける力はないけれど、大学の4年間で成長してプロになりたい』と、しっかり語っていました」

 福岡大は11月中旬の推薦入試を控え、サッカー部の推薦枠が、あと1つだけ残っていた。誰にするかを決めかねていた乾氏は、そこに坪井を入れることを決断する。

 最後の1枠に滑り込んだ無名の高校生は、4年間で「有言実行」の成長を遂げてJリーガーとなり、日本代表としてワールドカップにも出場する。11月7日に現役引退を発表した今季まで続いた、サクセスストーリーの始まりだった。

 入学後に坪井の成長を後押ししたのも、推薦枠に滑り込んだときと同じ、黒部の存在だった。乾監督は当時のことを、よく覚えているという。

「FWとDFですから、練習で毎日マッチアップして、バチバチやり合っていました。黒部がいたことが、坪井にとっては非常に大きかったと思います」

転機は全日本選抜の海外遠征。

 1年時からレギュラーの座を勝ち取った坪井は、オフの日もトレーニングや体のケアに熱心に取り組み、試合に出場しながら経験を重ねていく。フィードや展開力は心もとなかったが、予測と駆け引き、持ち味のスピードを生かすインターセプトや、背後を突かれても反転力でカバーするボール奪取力の高さが際立っていた。

 ただ、すべてが順風満帆だったわけではない。現状の実力を示す指針の1つとなる全日本大学選抜には、なかなか選ばれなかった。

 それでも3年生になる前の2000年4月、同選抜のメンバーにケガ人が出たため、海外遠征に追加招集された。当時は'01年北京ユニバーシアードを視野に強化が進められていた時期。ここで認められれば翌年の本番でのメンバー入り、さらに卒業後のJリーグ入りも現実味を帯びてくる。

 高校から大学に進んだときと同じく、ここでメンバーに滑り込んだことが飛躍のきっかけになった……のではない。むしろ逆だった。

失敗を“整理”して成長した坪井。

 現地のクラブチームなどと3試合を戦った遠征で、坪井は最初の1試合に出場したものの、続く2試合は出番なし。同選抜でコーチを務めていた乾氏は「力を発揮できなかった」と回想する。

「自分が積み上げてきたものが通用しなかったショックが影響したのかもしれません。福岡大に戻ると、4年間で最大のスランプに陥りました。それまでなら考えられないような抜かれ方をするなど、まったくダメな時期が続いたんです」

 だが、そのまま下降線をたどることはなかった。

「私が何かきっかけを与えたわけではなく、自分で自分を磨いていくことができる選手ですから、黙々と努力していたはずです。急に全日本大学選抜のメンバーに入り、自分にはない良さを持つ選手と一緒にプレーして、混乱したのではないでしょうか。しばらくすると得意なこと、不得意なことの整理ができたのだと思います。3年生の終わり頃には守備のスペシャリストとして、ブレない自分のスタイルが出来上がっていました」

ユニバーシアードの優勝に貢献。

 失意の内に終わった海外遠征から1年後の春。坪井は覚醒の時を迎える。

 '01年3月。各地域の選抜チームが集まって全日本大学選抜のメンバーを選考する『デンソーカップ・チャレンジサッカー』が行われた。九州選抜で出場した坪井は、各地域を代表するアタッカーとのマッチアップで素晴らしいディフェンスを披露する。

 この年も全日本大学選抜のコーチだった乾氏は、坪井の好プレーを見ながらも“一度はダメだったから”と感じていた。しかし、周りの関係者は絶賛。同選抜の瀧井敏郎監督(東京学芸大監督=当時)も「これは選ばないわけにはいかない」と高く評価し、メンバーに選出した。

 そのまま北京ユニバーシアードのメンバーにも選ばれた坪井は、CBのレギュラーとして活躍。DF平川忠亮、MF羽生直剛、FW深井正樹らとともに'95年福岡大会以来、2度目の優勝に大きく貢献する。

浦和の黄金期を支え、W杯にも出場。

 無名の高校生は4年間を経て、5〜6のJクラブから獲得オファーを受ける大学屈指のDFになった。'02年に加入した浦和では、1年目からリーグ戦全試合出場。2年目以降もナビスコカップ優勝('03年、現ルヴァンカップ)、J1セカンドステージ優勝('04年)、天皇杯優勝('05年)、J1初制覇&天皇杯連覇('06年)、AFCチャンピオンズリーグ優勝('07年)と、黄金時代に突入した浦和の最終ラインを支えた。

 Jリーグベストイレブンに選ばれた'03年には日本代表デビューを飾り、'06年ドイツW杯にも出場した。四中工から福岡大への道を作った樋口氏は、「坪井のように身体能力が高く、人間性が優れている選手は、大学で経験を積むことで伸びていくと思います。でも、W杯に出る選手になるとは想像できませんでした」とあらためて驚く。

 '14年限りで浦和を離れ、'15年から湘南、'18年からは山口でプレーし、今年9月には40歳となった。夏には「まだまだ体は動きますよ」と笑顔で語っていたが、11月7日に現役引退を発表する。

引退発表の2日前――。

 乾氏の下には2日前、11月5日に本人から電話があった。これまでもキャリアの節目には必ず連絡してきて、今回は「引退を決断して、クラブに伝えました」と報告を受けた。

 無名の高校生のサクセスストーリーは、1つの区切りを迎えた。'93年のJリーグ開幕以降、70人近いJリーガーを送り出している乾氏にとっても、坪井の歩んだ道のりは、自身の指導の在り方を再確認させてくれるものになっている。

「35年間、福岡大で指導していますが、あれだけ努力し続けることができた選手は他にいません。無名の高校生が、地方の大学からユニバーシアード代表に選ばれ、Jリーガーになり、日本代表としてW杯に出場する。夢のようなことを現実にする姿を見せてくれました。そういう選手を世に送り出していくことが、私の役割です。選手の力を決めつけず、可能性を見いだしていかなければならない。それを教えてくれたのが、坪井慶介です」

文=石倉利英

photograph by JUFA/Reiko Iijima


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