これも日本球界にとっての1つのチャレンジだ。

「バカかよといわれるのはわかっています。でも、それは先入観がそう思わせているのかもしれない。1%あるかないかの可能性ですけど、挑戦したい。僕らの同級生が常識を破ることの先頭をいっているので、いい刺激にはなっています」

 日本製紙石巻の投手・小原大樹が12月限りで同社を退社し、米球界に挑戦している。花巻東高時代は、エンゼルスの大谷翔平らとともに甲子園の舞台を経験しているサウスポーだ。秋のドラフトでもプロから指名されなかった選手が下した決断には考えさせられることも多い。

「米挑戦」と一口に言っても、彼の場合は平坦な道のりではない。そもそも、今回の決断そのものが常識外れだ。

 小原は花巻東を卒業した後、慶應大学に進学した。1年春にデビューを飾るなど大学生活のスタートは順調だったが、2年からは怪我などもあって高いパフォーマンスを持続できずに、大学通算2勝にとどまった。

 それでも、プロ入りを目指して社会人野球の日本製紙石巻に入社。今年3年目のシーズンを終えたばかりだが、夢を追って、アメリカへ渡るというのである。

花巻東・佐々木監督に言われたこと。

「NPBに入りたいという夢を今も持っています。ただ、年齢を考えたときに、これから30歳までの5年間で何を掴むかだと思っています。あれこれ言われていることよりも、とにかく体験してみないことには話は進まない。そう思って決断しました」

 NPBのドラフトに引っかからなかった選手が海を渡るのは容易なことではない。たとえ、マイナー契約を勝ち取ったとしても、茨の道だ。それでも限界を突破しようと決意した背景には、花巻東での経験、そして大谷翔平の影響が大きい。

「高校の恩師・佐々木洋監督からよく言われたのは、先入観や人から言われた情報によってできなくなってしまうことがあると言うことです。先入観を捨てて、自分が飛び込んで得るものが本当の価値だから、と。

 今の翔平を見ていると、本当に同級生だったのかなと思うくらい別次元のところにいて、できないと言われていた二刀流をアメリカでもやっている。そんな彼を見て、『不可能を可能にする』とか、『常識を疑う』ということを教わりました」

菊池雄星たちの活躍で岩手に野球熱が。

 岩手で生まれ育った小原が野球を始めたのは小学4年生の時だった。

 それまでは格闘技をやっていたが、野球が好きな祖父の影響で日本シリーズなどを見るうち、野球がやりたくなった。中学に入るまでは「4番・センター」。投手としてのコントロールが良くなかく、自信のあるバッティングでチームの勝利に貢献した。

 中学に入って盛岡北リトルシニアに所属してからは主戦投手を務め、全国大会出場を果たした。そして中学3年生になった'09年春、地元の花巻東がセンバツ大会で準優勝、夏はベスト4に進出する大躍進を目の当たりにし、小原の野球熱はさらに上がった。

 菊池雄星らを擁して岩手じゅうを歓喜に包んだ花巻東の勇姿は、小原ら岩手県の野球少年たちに希望を持たせた。

「岩手県民でもやれる」

「彼らが果たせなかった岩手県勢・日本一を取るのは俺たちだ」

 そんな夢を持って花巻東の門を叩いたのが、大谷であり、小原だった。

「中学3年のとき、雄星さんらが甲子園でフィーバーを起こして、僕らにとって、あれが人生を変えました。花巻東に行こう。そして、日本一になろうって。

 翔平のことも小学生の時から知っていました。翔平が花巻東に来ることを知ったのは遅かったんですけど、それ以外のメンバーもかなり有名な選手が揃っていた。この中に翔平まで加われば、心強いなと思っていました」

大谷がいても、エースを狙っていた。

 大谷がチームメイトになっても「エースの座を狙った」と小原はいう。1年生にして「160キロを出す」と目標を掲げる相手に敵う可能性は低かったが、「エースは大谷だとしても、勝つのは小原」と言われる日を夢見て、徹底して勝つピッチングを心がけた。

 佐々木監督が投手を多く揃えて連戦を戦う戦略を目指していたことも追い風となり、小原ら控え投手は十分すぎるほどの登板機会を与えられた。その経験が、今も彼の財産となっている。

「大会前に組み合わせが決まると、監督さんと投手陣の面談がありました。どういう展開になったら誰が先発に行くとか、大谷がどの日で、僕はいつ投げるのかとか。大谷がエースであることは揺るがないんですけど、いかに先を見据えて勝利に貢献できるかを考えていましたね」

エース大谷がいても登板機会があった。

 控え投手とは言っても、「投げない2番手」ではなかった。高校野球ではエースに頼り切りになるチームも多いが、花巻東はこの時期すでに、甲子園で勝つことと選手それぞれの成長を念頭に入れたチームづくりを志向していた。

 大谷が故障で離脱した2年生の秋の大会を小原らの力で勝ち上がり、3年春のセンバツ出場権を獲得したこともある。

 そのセンバツでは1回戦で大阪桐蔭に敗れ、小原の出番はなかった。「大会前のOP戦から別次元のピッチングを見せていたので、大谷が主戦になることは納得していました。相手が大阪桐蔭だったから打たれましたけど、それ以外ならまず打たれない。2回戦からが僕らの出番だって思っていました」

 花巻東はその夏の甲子園出場を逃し、岩手に日本一をもたらす夢は叶わなかったが、さらに高みへ向かおうとする大谷の姿に小原が刺激を受けないはずもなかった。

「大学4年間で努力してNPBに行く。僕の夢はまた翔平とチームメイトになることでした。高校時代は大谷に頼ってばかりだったので、今度は助ける立場になりたいなぁと。投手陣の1人として彼を刺激し、翔平が野手として試合に出ている時は頼もしい投手になりたい。そういう目標を立てていました」

社会人で「やれることはやったな」。

 大学では1年春の早慶戦でデビューを果たし秋も登板機会をもらったが、2年からは故障もあり安定したピッチングを続けることはできなかった。リーグ戦初勝利は4年春になってから。プロへは届かなかった。

「社会人では、入社2年でプロに行くことを目標にしていました。だから、指名がなかったら2年が終わった時点で退社するつもりでした。でも、当時は会社にも地域にも何も貢献できていないなと思って、もう1年間頑張ろうと。結果的に3年目も都市対抗や日本選手権にチームを導くことはできなかったんですけど、都市対抗予選では腕がちぎれてもいいくらいの気持ちで5連投もして、やれることはやったなと。

 退社するにあたって、引き止めてくださる方も多かったですけど、このままずるずると野球を続けて行くと甘い考えになっていく気がして、それはダメだと思って決断したんです。これからは、1月にアリゾナでトレーニングをして、2月に入ったらメジャー傘下の球団でトライアウトを受けます」

花巻東での3年間があったからこそ。

 小原が進もうとしているのは間違いなく険しい道だが、彼の挑戦を「1人の勇敢な野球選手が身ひとつで夢を追った」とは片付けたくない。

 なぜ、彼のような選手が生まれたかを考えたときに、花巻東の環境を別にしては語れないからだ。

 小原に大志があったのは事実だが、大谷翔平という絶対エースがいるチームの2番手でありながら、投げる機会を得られたのは稀有なことだ。

 今でも高校野球で根強い「エースと心中する」チームでは、小原のような投手は公式戦で投げる機会を得られず、練習の成果を試すこともできず、その先の目標は描けなかっただろう。

 花巻東の指導者たちが登板機会を彼に与えたからこそ、小原は卒業後も前を向くことができたのだ。

小原の挑戦は、日本野球の挑戦。

 小原が、希望に満ちた目でこんな風に語っていたのが印象に残っている。

「今は、何が起きるかわからないところへ飛び込むワクワクした気持ちです。やってみなきゃわからない。できるかできないかではなく、やるかやらないか。『無理だからやめておけ』と言われて諦めるのではなく、実体験こそが本当の価値だと思ってトライしようと思います」

 ダルビッシュ有や田中将大や前田健太、そして大谷や菊池など、日本人メジャーリーガーは高校時代から不動のエースだったタイプも多い一方、高校時代までは2、3番手だったタイプやそもそも投手ではなかったメジャーリーガーも数多くいる。

 高校時代は控え投手だった黒田博樹氏や、上原浩治氏、平野佳寿投手、大学に入ってから投手を始めた斎藤隆氏がメジャーで輝きを放ってきた。

 メジャーで成功を収めることは誰にとっても容易なことではないが、高校時代にエースではなかった投手が活躍することは、日本野球の裾野の広さを証明することにもなるだろう。

 その意味で、小原の挑戦は日本野球界のチャレンジでもある。

文=氏原英明

photograph by Kyodo News