Jリーグや海外サッカー中継で人気を博す実況アナウンサーの1人、下田恒幸氏。代名詞とも言える決定機での“絶叫”は一度耳にしたら忘れられないインパクトを持つが、どのようにしてその実況スタイルは築かれていったのか――。生い立ちからターニングポイントとなった試合について語りつくした、渾身のインタビュー。

 サンバを思わせる軽快なテンポも、抑揚のあるしゃべり方も、まるで良質な音楽を聞いているように心地良かった。

 スタジアムに熱狂が訪れた瞬間の、爆発的な絶叫さえも――。

「ゴォーーーーーーーーーーーーーーーーーーール!!!」

 遊びたい盛りにもかかわらず、友だちに別れを告げ、地球の反対側で暮らすことになった小学3年生にとって、ラジオから流れてくるサッカー中継は何よりの楽しみで、極上のエンターテインメントだった。

 もちろん、ポルトガル語など理解できない。だが、それでもスタジアムの風景が、ピッチ上の情景が、ありありと想像できた。

「サッカーでゴールデンエイジってあるでしょ。運動能力が急速に発達する10〜12歳の頃が、サッカーに必要なあらゆる技術の獲得に最適な時期なんだけど、僕はこの時期に耳でサッカーを聞いているんですよ。そのリズム、その感覚が自分の中に染み込んでいる」

 それが、アナウンサー下田恒幸の原点である。

「もう、その頃から将来の夢は、サッカーの実況者になることだから。我ながらブレずによくここまで来たよね(笑)」

 小学生時代に漠然と抱いた夢を叶えることの難しさは、誰もがよく知っているだろう。憧れの職業に就ける人は、ほんのひと握り。そもそも、人生経験を積むにつれ、将来の夢なんて変わっていくものでもある。

ラジオでの野球中継、杉本清の名実況。

 しかも、父親の転勤のために渡ったブラジルで下田少年がサッカーを観るだけでなく、聞く楽しさに目覚めたのは1970年代後半なのだ。中学1年のときに帰国したが、Jリーグが誕生するのは10年以上先のことになる。

「そう考えると、変だよね、プロリーグもサッカー中継もないのに将来はサッカーの実況をしたい、って思い続けていたわけだから(笑)。ただ、子どもの頃の夢ってそんなもんじゃない? それに、野球中継はあったから。僕、巨人ファンだったんですよ。テレビの野球中継って19時からしか始まらないでしょう。だから、18時のプレイボールの瞬間からラジオをつけるわけ」

 高校生になると、競馬の実況にもハマった。

「高校のクラスメイトがバイト先で競馬を学んで、学校に競馬文化を持ち込んだ。重賞の時期には誰かがスポーツ紙を買ってきて、予想したりしてね。

 ミスターシービー、シンボリルドルフの時代。教室では、杉本さん(関西テレビの杉本清アナウンサー)の実況なんかも話題になるわけ。『おまえ、あれ、聞いたか?』って」

 そんな中学、高校時代を過ごしたから、大学に進学しても夢がブレることはなかった。

 将来はサッカーの実況を生業にしたい。だから、まずはアナウンサーになる――。

当時Jクラブのない仙台のTV局に。

 在京キー局への就職はならなかったが、地方のふたつの局から内定を得た下田は、仙台放送を選んだ。'89年のことだから、Jリーグはまだ産声をあげていない。当然のことながら、楽天イーグルスも存在していない。1973年から5年間、仙台で公式戦を行なっていたロッテオリオンズもすでに去っている。

 それなのに、なぜ、仙台だったのか――。

「ほんと、自分がやりたいものが一切ない局によく入ったなと(笑)。でも、就職活動の過程で先輩から、『なるべく大きい局に入ったほうがいいぞ。キー局と仕事をする機会も多いから』と言われていたんです。仙台放送はフジテレビ系列の中では、関テレ(関西テレビ)、東海(テレビ)、その次の基幹局だったから」

 結果的に、このとき進んだ道が、下田をサッカーの世界に導くことになる。

初めてのサッカー実況は高校総体。

 サッカー実況デビューは思いのほか早くやってきた。

 入社1年目の1990年夏、地元・宮城でインターハイが開催され、仙台放送は速報番組を放送した。最注目選手は、宮城の高校の陸上部に所属する、優勝候補のスプリンター。会場に足を運んだ下田は、リポーターを務めた。

「『今日は宮城陸上競技場です。このあと、注目の誰々選手が走ります』って頭付けして、レースにナレーションを乗せて、終わったあとにインタビュー、という流れだったんだけど、『実況をつけるので、良かったら使ってもらえませんか』と。入社半年で、よく言ったよね(苦笑)。でも、これが使えたみたいで、自分で言うのもなんだけど、上司に『こいつ、できるな』と思ってもらえて」

 最初のチャンスに一発回答で応えた下田に、幸運が転がり込んでくる。

 サッカー競技において、地元の東北学院高が天才ゲームメーカー上野良治擁する優勝候補の武南高を下してベスト4に進出すると、準決勝の取材を任されたのだ。

「上司に『おまえ、サッカー好きだろ、実況もつけて来い』と言われてね。これが、最初のサッカー実況。東北学院の主力は、元浦和レッズの土橋正樹でしたね」

 その後、春高バレーやプロ野球ニュース、出雲駅伝などで力を磨いた下田のスケジュールにサッカーが入りこんでくるのは、Jリーグ誕生から2年が経った1994年秋のことだ。将来のJリーグ入りを目指し、ブランメル仙台(のちのベガルタ仙台)が誕生したのだ。

 ときはJリーグバブル真っ只中。仙台のスポーツ文化の希望の光になり得るチームの動向を、地元メディアは総力をあげて報道した。1995年からは戦いの舞台がJFL(当時Jリーグに次ぐ2部リーグの位置づけ)に移り、各メディアは競争とばかりにアウェーでも追いかけた。

 このチャンスを、下田は逃さなかった。

ブランメル仙台時代から“ひとり語り”。

「通常はディレクター、カメラマン、カメラアシスタントの3人で取材に行くんだけど、『俺が荷物を半分持って、アシスタントの仕事もやって、そのうえで実況もつけてくるから、カメアシの代わりに毎回取材に同行させてほしい』って直訴して。上司も『それ、面白いな』と言ってくれて」

 とはいえ、仙台放送がブランメル仙台の試合中継をしていたわけではない。下田の声が入った映像が使われるのは、夕方のローカルニュースの中のわずか数分だ。それでも下田はキックオフから試合終了まで、ひとりでしゃべり続けた。

「ハイライトではナレーションも入るんだけど、映像のときに現場でつけた実況が入っていたほうが絶対に面白いからね。その発想は他局にはなかった。もちろん、中継ではないから放送ブースは使わせてもらえない。記者席やスタンドでヘッドセットを付けて、ひとりでしゃべる。でも、ほぼ全試合行ったからね。この経験は大きかった」

 下田のひとり語りは、ブランメルが1999年にベガルタとして生まれ変わってJ2に参戦し、2001年11月にJ1昇格を決め、2003年11月にJ2に降格するまで続いた。

 当時、仙台放送も年に1、2試合はベガルタの試合中継をし、もちろん下田が実況を担当した。さらに再びJ2へと戦いの場を移した2004年には、スカパー!とJ SPORTSから仙台放送が中継映像の制作を依頼されたから、下田は20試合弱の実況を担当した。

夢を現実にするための、機は熟した。

 ところが翌年、楽天イーグルスが創設されたこともあり、仙台放送はJリーグ中継の下請けを断ることになる。

「当時は35歳くらいなんで、アナウンサーとしてはこれから。経験を積めば、まだまだ伸びる。ところが、年間17、18試合の中継を担当できていたのが、また年間1、2試合に減ってしまう。取材に行ってオフコメントだけつけて帰ってくる状況に戻るというのは精神的にキツい。それに……」

 '90年代後半からWOWOW、J SPORTS、スカパー!など、CSのテレビ局がサッカー中継を行なうようになっていた。特にスカパー! は、2002年日韓ワールドカップを全試合中継してから、より一層サッカー中継に力を入れるようになった。

「'05年というのは、ドイツ・ワールドカップの直前で、各国の親善試合がたくさん放送されていたんだよね。僕自身、野球中継も、バスケも、バレーも、フォーミュラ・ニッポンの中継も経験していたから、いろいろなものがある程度できるだろうと。手応えはあったし、辞めるならここかなって」

 夢を現実にするための、機は熟したのである。

 独立した下田は、2006年のJ2から始まり、世界バレーや世界バスケの実況も行なった。さらにスカパー!がJリーグ全試合の放映権を取得した2007年以降は、Jリーグ中継で週末のスケジュールが一気に埋まる。

 その頃からセリエAやチャンピオンズリーグも任されるようになった。

「こうして振り返ってみると、流れ的には出来すぎだよね(笑)」

南アW杯・カメルーン戦での言葉。

 業界内でたしかな信頼と評判を得るようになった下田に、転機となる瞬間がやってくる。2010年南アフリカ・ワールドカップである。

 このとき、岡田ジャパンは窮地を迎えていた。ワールドカップイヤーに突入した2010年2月、ホームで韓国に1−3で惨敗すると、5月の壮行試合でも韓国に0−2で完敗。直前合宿中のテストマッチでもイングランド、コートジボワールに連敗し、重苦しい空気のなかでカメルーンとの初戦を迎えた。

 選手入場の前、スカパー!の中継が始まると、ブブゼラの音が鳴り響くなか、感情を抑えた下田が口を開く――。

<ドーハの悲劇でアジアの列強とのわずかな差を痛感し、フランスのピッチで世界とはまだ距離があることを実感し、自国開催の熱狂で世界と互角に渡れると錯覚し、ドイツで味わった痛烈な敗北感。私たちは4年ごとに世界と向き合い、悔しさも喜びも糧にしながら、右肩上がりに邁進してきました。しかし、誤解を恐れずに言えば、この数年の日本サッカー界と代表チームには、いくばくかの閉塞感が漂っています>

 こうして始まったイントロは、Jリーグの舞台で輝いている自分を存分に発揮してほしい、100%出し尽くしてほしい、それがすなわち一丸であり、それがすなわち全力なのだと訴え、次のような言葉で締められた。

<2010FIFAワールドカップ南アフリカ、グループEの初戦。日本にとっての4回目のワールドカップ。相手は「不屈のライオン」の異名をとるアフリカの雄、カメルーンです>

 時間にして1分半、イントロとしてはいささか長いひとり語りだった。

Jを見続けたからこそ「もっとやれる」。

 2005年からフリーランスになった下田にとって、この試合は日本代表戦の実況のデビュー戦でもあった。

 当時、日本代表は多くの選手が国内にいたため、下田は2010年シーズンのJ1リーグの試合を可能な限りチェックし、ワールドカップに臨もうと考えていた。

 Jリーグを見続け、代表選手たちのプレーを眺め続けて感じたのは、「きみたちは、もっとやれるはずだ」という想いだった。

 その想いが、下田に長めのイントロ原稿を用意させた。

「でもね、直前までそれを読むかどうか迷ったんだよ。イントロはアナウンサーの見せ場なんだけど、凝りすぎると、押しなべてハマらない。そうすると、せっかくの大舞台が台無しになっちゃう。用意したイントロを使うリスクも大きいなと。だから、用意はしたけれど最後は全部捨てて、現場の雰囲気だけをコメントして中継に入ることも考えていた」

 ぎりぎりまで迷った。迷い抜いた末に下田は決断する。

「FD(フロアディレクター)に、『冒頭でイントロを語る。ただ、かなり長いから覚悟しておいて、って東京の卓D(送出卓ディレクター)に伝えておいてもらえる?』と頼んだんだ」

 結果、このイントロは多くの視聴者からの支持を得た。

 多くのサポーターが共感したとするなら、それが、上辺の言葉ではなく、Jリーグの試合を見続けた下田の心の底から湧き出た想いだったからだろう。

「これはあくまでもイントロであって、実況ではないわけです。実況に関して言えば、この前と後で僕の力が急に伸びたわけでも、スタイルが変わったわけでもない。ただ、あのイントロで僕を認知してもらったのは確かだと思います」

 ワールドカップ後、香川真司や内田篤人がドイツに渡ると、セリエAに加えてブンデスリーガも担当するようになり、それから数年後、プレミアリーグの仕事も増えた。

「一気に3つのリーグをやったんじゃなく、徐々に広がっていったのも良かった。まずセリエを3年くらいやって下地ができたところでブンデス、そこでもベースができたところでプレミア。そうやって3つの山を築けた感じですね」

「選手と一緒に、言葉で、音でプレーする」

 今や第一人者となった下田には、もちろん、ラ・リーガの実況依頼もある。

 だが、それを断るところに、下田のこだわりがある。

「僕は“裏チーム”も大事にしたい。(レアル・)マドリー、バルサ(バルセロナ)、アトレティコ(・マドリー)といったクラブの情報はいくらでも拾えるけど、対戦相手、いわゆる“裏チーム”の情報をどこまで拾えるか。オサスナだって、レガネスだって興味のある人がいる。

 そのチームのファンがひとりでも見ている限り、手は抜けないし、同業者に浅いな、とも思われたくない。現地ではこんな報道がある、っていうことまでしっかり触れるとなると、プレミア、ブンデス、セリエ、CLで精一杯かな」

 もちろん、しゃべるうえでのこだわりもある。いや、これこそ最もこだわっている点で、下田をサッカー実況の第一人者たらしめているものだ。

「選手と一緒に、言葉で、音でプレーすること。チームが変われば、リズムも変わる。だから、僕の発する言葉のリズムも変わる。プレーの描写に関しても、オン・ザ・ボールのときに選手の名前をつけられるかどうか。予測してないとできないんですよ」

 例えば、シャビがボールを持ったとき、アンドレス・イニエスタに出すのか、リオネル・メッシに出すのか、シャビの選択肢をパッと把握したうえで、メッシにボールが渡る前に「メッシだ!」と言わなければ、間に合わない。

「そのズレをなくし、パスワークのリズムに名前とプレー描写を乗せることができれば、視聴者は一緒に試合をしているような感覚になれるはずなんです」

 例えば、トーマス・ミュラーがシュートを蹴り込む瞬間に「ミュラー! そこにいました!」と瞬時に言えるのは、展開をしっかり読み、追えている証なのだ。

たとえ20回言い間違えたとしても。

 だから、言い間違いもたくさんある。サッカーファンからもよく指摘されるが、そこでの勝負をやめるつもりはない。

「20回しか描写しないアナウンサーがたまに間違えて、16回合っていたとする。正解率8割でしょ。僕はそこで60回言いたい。それで20回言い間違えたとしても、40回は起きているプレーの質と映像をリンクさせて視聴者に届けることができたわけで、僕は後者でありたいと思う。もちろん、ミスを少なくする努力はするけどね(笑)」

 起こっていることを過不足なく言葉で伝え、エンターテインメントとして耳で楽しませる――。

 それが、ラジオのサッカー中継に胸を躍らせた下田の実況者としての矜持だ。

「そもそも映像があるんだから、実況なんてなくても試合内容は分かる。それでもわざわざ実況をつけるわけだから、プラスαの楽しみを届けられなければ、実況を足すことの意味はないかなと」

 ゴールを決めれば、億を稼いでいる選手でも子どものように喜び、サポーターは我を忘れて歓喜に沸く。それがサッカーの魅力だとすれば、言葉で、音で、その強度や濃度、空気感をしっかり表現したい。

 だから、下田の実況は、ちょっとうるさいことでも有名だ。

「でもさあ、スタジアムってそもそも騒がしいところじゃない? 点が入ったときなんて特にそう。そもそも実況って『現実のありのまま』っていう意味で、うるさいものをうるさく描写しているんだから、それが嫌な人には……、ごめんなさい、って謝るしかないよね(笑)」

 愛するチームを90分間鼓舞し続け、選手と一緒になって戦うサポーターの存在は、よく「12番目の選手」にたとえられる。

 だとすると、音で、言葉で、ピッチ上の22人の選手たちと一緒にプレーし、観る者にプラスαの楽しみを提供する下田は、「23人目の選手」と言えるかもしれない。

文=飯尾篤史

photograph by Atsushi Iio