ボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイパークの、狭苦しいビジターチームのクラブハウスの入り口近くに、彼はいた――。

 デレク・ジーター。つい先日、「ほぼ満票」で米野球殿堂入りしたニューヨーク・ヤンキースの遊撃手だ。

 それは2001年の夏、当時ワールドシリーズ4連覇を目指していたヤンキースがア・リーグ東地区でレッドソックスを引き離し、独走態勢を固め始めた8月下旬のことだった。

 当時、主戦場にしていた雑誌の企画でインタビューを申し込んだ。テレビで見ている時はさほど大きく感じない身長190センチは、間近で見ると思いのほか迫力があった。いかにも忙しそうにロッカーの荷物を片付けていた彼は、恐ろしいほど蒼く澄んだ瞳をこちらに向けて、こう言った。

「今は時間がないんだ」

 体よく断られた。当時はまだ、松井秀喜外野手がヤンキースのユニフォームを着る前で日本人のメディアは他に誰もいなかった。強面の広報には「グッドラック」と言われていたが、それはつまり、「彼と話したい記者は大勢いるから、難しいぜ」という意味だった。

 実際、こちらが様子を窺っていると、手慣れたヤンキースの番記者がタイミングをうまく見計らって次から次へとジーターと話すので、ハンパない失敗感覚に襲われた。

「今なら時間あるよ。5分ぐらいなら」

 そんな気分が晴れたのは、監督会見がダッグアウトで始まり、番記者たちが一斉にいなくなった時だった。室内での打撃練習から帰ってきたジーターが居心地悪そうに立っているこちらに気づき、「今なら時間あるよ。5分ぐらいなら」と言ってくれたからだ。

 結論から言うと、ひどいインタビューだった。

 4連覇を目指すチームの現状について。ノーマー・ガルシアパーラ(当時レッドソックス)や「A・ロッド」ことアレックス・ロドリゲス(当時レンジャーズ)と並ぶ攻撃的遊撃手の1人と言われることについて。宿敵レッドソックスとの対戦について……等々。

 きっと今まで何度も聞かれたであろう質問を自分なりに考え、角度を変えて尋ねたつもりだったが、まったくのこちらの技量不足で既出のインタビュー以上の返答は出てこなかった。

毎晩泣いて親に電話していた頃。

 淡々とした表情で話すジーターの表情が少しだけ変わったのは、マイナー時代の話になった時だった。

ナガオ あなたは少年時代に憧れたヤンキースから1992年、ドラフト1巡目(全体6位)で指名され、その3年後にメジャーデビューしてます。メジャーでフルシーズンを過ごした初年の1996年には22歳でワールドシリーズ初優勝してますし、今までのプロ野球生活で辛いことなんて、何ひとつなかったんじゃないですか?

ジーター そんなことないよ。ドラフト指名されてすぐにマイナーに行った時なんか、ひどいホームシックにかかって、毎晩、泣きながら両親に電話してたんだから。

 ホームシック? 泣きながら? という部分に過剰に反応してしまい、その言葉をそのまま口にして、再び問いかけると、ジーターは少し恥ずかしそうに視線を泳がせながら、こう続けた。

「だって、僕はそれまで親元を離れたことなんて一度もなかったし、高校を卒業したばかりで自分がプロ野球でどう振る舞っていいのか分からなかったんだから」

 当時のジーターは27歳でメジャー7年目。のちに通算3465本まで積み重ねる安打数の3分の1近くを打っていた「若きリーダー」で、とても初々しかった。

イチローについて、両親について。

 その後メジャーデビューしたばかりのイチローについて尋ねると「まったく油断ならない存在だ」と冗談を飛ばしながらも、「彼が相手だとベースボールがスリリングになる」と最大限のリスペクトを口にする。

 子供の頃の両親の厳しい教育方針については「他のティーンエイジャーと一緒で、僕だって親に従わない瞬間はあった」と素直に漏らしながらも、「彼ら(両親)は僕のことをいつも信頼していたし、僕に理解できないことがあった時は、理解できるまで根気よく諭し続けてくれた」とこれまたリスペクトを見せる。

 最後の質問が何だったかは覚えていないが、「他に何かあるかい?」と彼がこちらを気遣ったことで、インタビューは終わった。

2001年にはヤンキースの顔だった。

 その約1週間後、世界貿易センタービルやペンタゴンに旅客機が次々と突っ込んだ。

 同時多発テロの休止期間を経て再開されたメジャーリーグの試合後、ジーターがインタビューに答えている姿は、フェンウェイパークでのそれとは少し違って、とても深刻な様子だった。

「今もまだ、人々はひどいショックを受けている。だからこそ、たとえ一瞬でも現実に起こっていることを忘れて、野球を楽しんで欲しいと思うんだ」

 当時からすでに彼は「ヤンキースの顔」であり、とくに試合に負けたり、優勝を逃したりした時にメディアやファンから「Accountability=説明責任」を求められていた。

 彼がヤンキースのキャプテンとなったのは、その2年後の2003年だ。

まっさきに投票のチェックを入れた。

 正直に言うと、件のインタビュー(後にも先にも、単独インタビューはあの1回だけだ)をした当時、私はジーターが通算3465安打も打つなんて思っていなかったし、40歳までプレーすることすら想像できなかった。

 もしも、当時から分かっていたことがあったとしたら、それは彼がピンストライプのユニフォームを着ている限り、それからもずっと「チームを代弁すること」だったかも知れない。

 デレク・ジーターはそれからもずっと、デレク・ジーターであり続け、ヤンキースにおける説明責任を果たしながら、殿堂入りに見合う立派な成績を残した。

 あれから19年、殿堂投票をするにあたって最初に印を入れたのが「Derek Jeter」の欄だったのは、言うまでもないことだろう。

文=ナガオ勝司

photograph by Katsushi Nagao