「正直、僕はみんながここにいることに、すごく驚いている。今朝もトランプ大統領がヨーロッパからのアメリカへの入国を止め、NBA(全米プロバスケットボール)が試合を見合わせたというのに、F1は続行しようとしている。

 ここにいるみんなはまるで普通の1日みたいに過ごしているけど、本当はそうじゃないはずだ。ここ以外の世界はどこもとんでもない状況になっているというのにね」

 これは、F1の2020年の開幕戦であるオーストラリアGPを翌日に控えた3月12日(木)にFIA(国際自動車連盟)が主催した合同記者会見で、ルイス・ハミルトンが放った強烈なFIA批判である。

 ハミルトンが指摘した“とんでもない状況”というのは、言うまでもなく新型コロナウイルスの感染拡大のことだ。

 果たして、ハミルトンの危惧は的中。FIAはその18時間後の3月13日(金)の午前10時すぎにオーストラリアGPの開催中止を発表した。最初のセッションスタートまで2時間を切るという、前代未聞のドタキャンである。

何度も危険サインは出ていた。

 なぜ、このような事態に陥ってしまったのか。ハミルトンが指摘したように、今回のオーストラリアGPを開催するべきではないというサインは何度も出ていたように思う。しかしFIAとF1、そして主催者は、それらの黄信号のシグナルをことごとく見落とし、立ち止まることなく進もうとした。その結果、開幕直前のキャンセルという大失態を演じてしまった。

 中止を発表する1週間前に、時計の針を戻そう。このとき、最初の黄信号は出されていた。オーストラリアGPに向けて、レース関係者が出発する約1週間前の3月6日(金)のことだ。

 この時点で新型コロナウイルスの感染拡大の中心がヨーロッパに移っていたことを考えると、確実に見通すことはできなかったとしても、事態の進展を予測することは十分可能だったはずだ。

イタリア、ドイツが次々と警告。

 たとえばフェラーリとアルファタウリ(トロロッソから改名)の本拠地があるイタリアでは、政府が5日から国内のすべての学校を休校にする措置をとっていた。

 イタリアだけではない。FIAの本部があるフランスでは前日285人だった国内合計感染者数が1日で138人増えて、423人に急増。王者メルセデスの本社があるドイツも国内合計感染者数が262人に急増し、保健相が「これはもはや世界規模のパンデミック」と警告を発していた。

 多くのチームがオーストラリアでの入国拒否に備えて、オーストラリア行きの飛行機の旅程に関して、次善の策を講じていたほどだった。

 しかし、F1の会長兼CEOを務めるチェイス・ケアリーは「1週間前にチームがオーストラリアへ向けて移動を始めたとき、われわれは正しい決定だと感じていた」とこのサインを無視し、開催への作業を予定通り進めた。

「やっぱり、お金なのかなあ」

 2つ目のシグナルは、開催2日前の11日(水)に出ていた。この日、チーム関係者が仕事を行うエリアで、感染が疑われる病人が複数出た。彼らはすぐに新型コロナウイルスの検査を受け、ホテルで自己隔離となった。

 そこで、主催者はファンとドライバーとの接触を避けるためにすべてのサイン会をキャンセル。さらにFIAとF1はドライバーと一部メディアとの接触を制限するために、テレビ局のインタビュー取材をキャンセルした。プリントメディアの囲み取材でも、各チームがドライバーとメディアの間にロープを張るという異常ともとれる措置がとられた。

 それでもなお、FIAとF1、そして主催者は開催を断念することはなかった。冒頭のハミルトンのコメントは、このような状況となっていた12日に発せられたものだ。ハミルトンは、さらにこう続けた。

「僕はこの問題に対しては、ドライバーは自分の意見をはっきり言うべきだと思う。(感染が疑われたスタッフの検査)結果がわかるまでに5日ぐらい(つまりレース後まで)かかると聞いた。偶然にしても、ちょっとあり得ないよね。やっぱり、お金なのかなあ。僕にはわからない。とにかく、この週末、感染者が出ることなく終わることを本当に望んでいる」

 しかし、その6時間後、検査の報告が入る。マクラーレンのスタッフのひとりが陽性という結果だった。この事態を受け、マクラーレンはオーストラリアGPからの撤退を発表。これが3度目のシグナルだった。

開始まで2時間を切ってのドタキャン。

 すぐさま、すべてのチーム代表とFIA、F1、そして主催者が同じ席につき、オーストラリアGP開催の可否を巡る協議を行なった。話し合いは午前2時過ぎまで続いたが、それでも結論が出るまでには至らなかった。そこに数十億円とも言われる多額の開催権料を巡る駆け引きがあったことは想像に難くない。

 FIA、F1、主催者3者の駆け引きは13日早朝から再開された。サーキット開門時刻となった朝8時45分に、主催者がオーストラリアGPでの一切のイベントを中止すると発表し、観客の入場を拒否。

 その1時間後の午前10時すぎに、FIA、F1はようやくオーストラリアGPの中止を正式に発表した。セッション開始まで2時間を切っての、まさにドタキャンだった。

 ケアリー会長兼CEOは「レースをお見せできないことは残念だが、われわれは正しい決断を下した」と語った。

F1が興行であるのは確かだが……。

 しかし、彼らが中止の発表をしたとき、すでにハミルトンとチームメートのバルテリ・ボッタス、そしてセバスチャン・ベッテル(フェラーリ)とキミ・ライコネン(アルファロメオ)が帰国の途についていたことを考えれば、決定は間違ってこそいなかったものの遅きに失した感は否めない。

 その後、ピレリのスタッフにも感染者が出ていたことが判明。感染が確認されていないほかのほとんどのスタッフも、帰国後は自宅での14日間の自己隔離生活が続いている。

 F1はスポーツであると同時に興行でもある。グランプリを開催することで得られる巨大な経済的報酬がF1を支えていることも十分、承知している。しかし、その代償としてファン、そしてグランプリ関係者とその家族の生命が脅かされるようなことだけは絶対にあってはならない。

文=尾張正博

photograph by AFLO