扉を開けた瞬間、松岡修造さんが驚きの声を上げた。

「すごい! いったい何面あるんですか」

 昨年誕生したナショナルトレーニングセンター東館は、パラリンピック競技に配慮されたバリアフリーの練習フロアをいくつも備えている。車いすフェンシングの練習場も広く立派なもので、競技コートに当たるピストは30を数える。真新しい練習場の入口付近に、義足を履いて立つ加納慎太郎さんの姿があった。

 加納さんは福岡出身の35歳。現在はヤフーの社員として働きながら、車いすフェンシングで東京パラリンピック出場を目指している。

 挨拶を交わした後、2人はさっそくピスト(床)に固定された競技用の車いすに座り、正面から向き合った。車いすに座ったまま、上半身の動きだけで剣を突きあうのが車いすフェンシングの基本ルールだ。

「フェンシングはスポーツであり、アート」

松岡「第一印象を言って良いですか。すごく慎太郎さんを遠く感じます。いすが固定されているから近づけないし、ここからどうすればいいのか……」

加納「まだ剣を持ってませんからね。剣を持てば十分相手に届くし、上半身を引いたり、傾けたりしながら、間合いを詰めます」

松岡「ここは施設が新しいから、雰囲気に圧倒されますね。今日は軽く体験させてもらうだけなので、そんなに本気にならないで下さい(笑)」

加納「わかりました(笑)」

 和やかに対談がスタートすると、ここで予期せぬ出会いがあった。

 男子フルーレの日本代表コーチを務めるオレグ・マツェイチュク氏が練習場に現れたのだ。ときおり車いすフェンシングの指導もしているそうで、会えたのは偶然だ。松岡さんが挨拶に駆け寄ると、しばし2人の間でこんな会話がやりとりされた。

オレグ「フェンシングはスポーツであり、アート。ミッションは点を取ることだが、華麗さを魅せる競技でもある」

松岡「車いすフェンシングとノーマルフェンシングの違いは何ですか?」

オレグ「車いすフェンシングは足を使わない。それが違いとしては大きい。利用できるスペースが少ないから、より戦術的とも言える。センスが問われます」

「勝つために必要なのはメンタル」

松岡「フェンシングにおけるセンスとは?」

オレグ「難しい質問(笑)。簡単に言えば、考えるよりも前に予測すること」

松岡「加納さんはコーチの目から見てどんな選手でしょう」

オレグ「技術は十分にある。ただ、勝つために必要なのはメンタル。考えすぎて疲弊するのは良くない。いかに毎日のトレーニングを目的を持ってできるか。自分にフォーカスして、良い準備をすることが大切です」

 さらにオレグコーチによる直々の指導が松岡さんに対して行われた!

 マスクをし、共に剣を取り、フルーレの有効面の一つである胸を突く動作を繰り返す。

「前、前、ミスを振り返ってはいけない。この時が一番大事」

 オレグコーチの指導は情熱的だ。

「突く、突く! 気持ち、盛り上げて。そう、ブレイブハートで!」

 次第に熱が入っていく指導に、たまらず松岡さんが悲鳴を上げた。

「もう十分です!」

 マスクを脱ぎ、笑顔で握手する2人。風のように現れ、風のように去って行くオレグコーチから、最後に日本語と英語をミックスさせた印象的なメッセージが送られた。

「夢は力。つねにポジティブに考え続けていれば、きっと良いことが起きる。何も恐れない、“バカ”ドリームも時には必要です」

「車いすフェンシングは想像以上に怖い」

松岡「いやあ、良い話ばかりでした。コーチは熱い方ですね」

加納「圧倒されます」

松岡「実際に体験させてもらって、この車いすフェンシングは想像以上に怖いことがわかりました。対戦という点ではテニスと同じだけど、もっと本能に訴えかけてくる。昔、ヨーロッパの騎士たちはこうやって生きるか死ぬかの感覚でやっていたんだろうなって。初めて剣を取ったとき、そう感じなかったですか」

加納「僕は元々剣道をやっていたので。そういう感覚にはならなかったですね」

松岡「でも、剣道の試合とはだいぶ違いますよね」

加納「握った感覚は違いますね。ただ、僕は父親が剣道をしていて、子どもの頃からキャッチボールをする感覚で父親と剣道をしてきたんです。竹刀を通して会話をしてきたから、怖さというものはない。戦うことも好きなので、自分には向いている競技だと思います」

松岡「車いすフェンシングは、最初に互いの車いすの距離を測るところからスタートするんですね」

加納「そうです。選手個々に腕の長さが違うので、短い方の選手が不利にならないように基本は腕の短い方に合わせます。松岡さんの方が僕より腕が長いので、松岡さんは剣を持つ腕の肘を直角に曲げて、僕は剣を持った腕を完全に伸ばした状態で剣先が松岡さんの肘の内側に届くようにする。その距離で競技を始めます」

想像より薄かったフェンシングのジャケット。

松岡「このメタルジャケットって言うんですか。生地はもっと丈夫だと思っていたら、全然そうじゃない。さっき胸のところを突かれて、何度も『痛い』って声を上げそうになりました。

 マスクをすると、相手の顔もまったく見えなくなる。映画『千と千尋の神隠し』に出てきた“カオナシ”みたいな感じ(笑)。感情が読めないから、相手を不気味に感じます」

加納「感情はむしろ、別のところで判断しますね。相手が大振りになったりするとイライラしているのかなと思うし、逆に力が抜けていると冷静なのかなって判断します」

「やっていると闘争本能が呼び覚まされて……」

松岡「この剣も想像以上に重たい。よくこれを自由自在に操れますね」

加納「僕はリーチが短いので、相手に攻めさせて、どれだけカウンターで技を返せるかが重要になる。これをわりと僕は得意にしています」

松岡「不思議なもので、怖いんだけど、やっているとどんどん闘争本能が呼び覚まされていく感覚があるんです。テニスはいくら勝ちたいからといっても相手を突くことはできないけど、フェンシングだとそれができてしまう。なんか心が燃えてきませんか」

加納「でも、僕からしたらテニスの方がずっと大変だろうなって。暑い日とか雨の日でも、屋外でやらないといけないですし」

松岡「でもほんと、このメタルジャケットを着ると僕でも格好良く見えるね。ちなみに、慎太郎さんは競技の時は義足を外すんですか」

加納「外します。外さないとダメですね」

松岡「事故に遭って左足を失ったのは、高校生の時と伺いました。たしかバイクの事故だと……」

(構成:小堀隆司)

*本取材は緊急事態宣言以前に済ませたものとなります。

加納慎太郎(かのう・しんたろう)

1985年3月2日、福岡県生まれ。小学生のときに父の影響で剣道を始める。16歳の時にバイク事故で左足を切断。事故後も義足をつけて剣道を続けていたが、2013年、28歳のときに東京2020の開催が決定。パラ競技にはない剣道から、パラ競技種目であるフェンシングに転向することを決意し、練習を始める。'16年ヤフーに入社。SR推進統括本部スポーツ事業推進室に在籍しながら、東京パラリンピックを目指している。

文=松岡修造

photograph by Nanae Suzuki