伝説の拳が天に召された。

 ブランコ・シカティック(クロアチア)。享年65。死因は肺血栓症の悪化だったという。2年前、肺血栓症で入院したシカティックは直後にパーキンソン病も併発。最近は家族のサポートのもと、アドリア海に面した古都ソリンにある自宅で療養していたが、3月22日帰らぬ人になった。

 初来日は初めてのK-1として行われた1993年4月の『K-1GRAND PRIX'93』だった。世界で初めて行われたヘビー級ファイターによる8人制のワンデートーナメントに出場したのだ。正直、当時のシカティックは日本では無名の選手にすぎなかった。

 しかし、初戦(準々決勝)で安生洋二との異種格闘技戦でプロレスファンにも人気の高かったチャンプア・ゲッソンリット(タイ)を体格差とパワーで圧倒。1ラウンドに右ストレートでKOするや、一気に波に乗った。

 続く準決勝では日本期待の佐竹雅昭を左フックで3RKO。決勝ではシカティック同様、ノーマークながらピーター・アーツ(オランダ)とモーリス・スミス(米国)を下して勝ち上がってきたアーネスト・ホースト(オランダ)を右ストレート一発で葬った。

シカティックがK-1のKを“KOのK”にした。

 シカティックが3試合連続KOで優勝したことで、“K-1のKはKOのK”として世に知られることになった。

 ヨーロッパの選手はパンチとキックのコンビネーションを駆使することが多いが、シカティックの右ストレートや左フックは一撃必殺と呼ぶに相応しい破壊力を秘めていた。

 出場メンバーの中でシカティックは34歳と最高齢だったが、後日驚愕の事実が発覚する。実際には4歳上の38歳だったというのだ。

 実年齢で出場しようとすれば、年齢で引っかかるとでも思ったのだろうか。

本業は、特殊コマンド部隊の教官。

 この時、シカティックの本職は母国クロアチアの特殊コマンド部隊の教官だった。

 クロアチアはユーゴスラビアから独立して2年しか経っておらず、独立紛争の真っ只中。その凍てつくような青白い光を放つ眼光は、個性派揃いのK-1の中でも異彩を放っていた。

 シカティックが何度も戦地に赴き、実際に戦闘に加わっていたことを聞いたのはあとになってからのことだ。

重傷を負っても試合を続行した男。

 金のために闘う男ではなかった。

 K-1優勝でシカティックは優勝賞金10万ドル(当時のレートで約1100万円)を手にしたが、そのうち半分は自分の部隊が所属する同国の軍隊に、残りの半分も所属するチャクリキに寄付すると発言して周囲を驚かせた。

 根性は他の選手の何倍も感じさせる選手でもあった。

 '94年9月横浜で行われたK-1 REVENGE。因縁のリマッチを中心にマッチメークされたワンマッチ大会で、シカティックは以前ホームタウンデシジョンで負けたという声もあるスタン・ザ・マン(オーストラリア)との再戦に挑んだ。

 試合は一進一退の攻防の末、スタン・ザ・マンが5ラウンド判定でシカティックを返り討ちにしたが、試合後シカティックのセコンドに就いたチャクリキのトム・ハーリック会長は驚愕の事実を打ち明けた。

 なんと試合の途中からシカティックの右スネは大きく割れていたというのだ。

 同日夜、試合写真を確認すると、中の骨が見えるほど大きく割れていることが判明した。それでも、試合中シカティックは痛みを察知されるような素振りを見せたり、弱音を吐いたりすることは一度もなかったのだ。

「チャクリキに痛いという感情はない」

 インターバル時、セコンドは深刻なケガを負っていることを把握していたが、シカティックは「絶対に試合を止めないでくれ」とタオル投入を拒み続けていたという。

 全試合終了後、控室で筆者が「痛くなかったのか?」と聞くと、シカティックはサラリと答えた。

「チャクリキに痛いという感情はない。ひとたびリングに上がれば、痛みは恥になる。だから痛くないよ。今回はちょっと切れただけさ」

 やせ我慢には聞こえなかった。

 カッコをつけているようにも思えなかった。これが、シカティックの生き方なのだと思った。

戦争参加のために一度は現役引退。

 K-1におけるシカティックの試合数は少ない。

 '94年12月にはクロアチアの独立戦争に参加したいという理由で引退を宣言したうえでアーネスト・ホーストとの1年8カ月ぶりの再戦に臨んだ。

 この時はK-1でコンスタントにリングに上がっていたホーストに分があると思われたが、前戦同様シカティックはホーストを2Rに右ストレートでKO。返り討ちにしてしまった。シカティックは最後までK-1の象徴として生き抜いた。

 その後、K-1に復帰したと思いきや、PRIDEのリングにも登場し、キックボクシングだけではなく“バーリトゥード”(当時総合格闘技はそう呼ばれていた)にも挑戦した。

 しかしながら、すでに40を過ぎているという年齢の問題もあったのだろう。K-1に登場した時のような大きなインパクトを残すことはできなかった。あと10歳若ければ、もっと積極的に総合格闘技に挑んでいたかもしれない。

晩年は大の親日家として積極的に活動。

 晩年は母国で警備会社を運営する傍ら、後進の育成にも励んだ。

 大の親日家としても知られ、日本クロアチア協会の常任理事も務め、日本で譲り受けた土佐犬をかわいがりながら飼っていた時期もあったという。

 2017年には自分で育てたキックボクサーや総合格闘家を引き連れ、パンクラスや新生K-1に出場させた。

 久々に来日した際、チャクリキJAPANが主催したパーティーに招かれ、シカティックと旧交を温めることができたのも懐かしい思い出だ。

 もう63歳になっていたシカティックはすっかり優しい面持ちになっており、大好きなワインについての話になると饒舌だった。

 天国では、ご自慢のクロアチア産のワインを手にかつて拳を交わしたアンディ・フグやマイク・ベルナルドと杯を重ねているのだろうか。

文=布施鋼治

photograph by Susumu Nagao