5年前、監督に就任したばかりの吉原知子は、入替戦に敗れて2シーズン目の2部リーグを余儀なくされ、自信を失っていた選手を前に、最初のミーティングで高らかにこう宣言した。「トップを獲りにいくよ!」。その言葉は今年1月、見事に実現する。いかにしてチームはどん底から甦ったのか。激闘の日々を追う。

 一瞬、耳を疑った。

「やれる準備は十分してきましたので、楽しみにしています。期待して下さい」

 バレーボール女子Vリーグファイナルステージ、上位4チームが対戦するセミファイナル前日会見の席上だった。全チームの監督、主将が揃った場なのだから、多少はリップサービスもあるだろう。そう思えば何の疑問も抱くことはない。

 ただし、発した主がJTマーヴェラスの吉原知子監督ならば、少々様相が異なる。

 試合中は表情を変えることなくベンチに座る。なおかつ、完璧に近い展開で会心の勝利を収めた後も、発する言葉は褒めるよりもまず「まだ課題がある」という指摘。

 その吉原が「期待して」と言うのだ。これはリップサービスではなく、確信だ。

 このチームは勝てる、と。

 そして2日後の1月26日。JTマーヴェラスは岡山シーガルズとの決勝戦をフルセットで制し、9シーズンぶり2度目の優勝。見事に、有言実行を果たしてみせた。

「一番になりたい」では獲れない。

 勝ってよかった。そう笑いながら、吉原は就任した5年前を振り返る。

「どうせ私たちはダメだ、とか、ブーブー言っていたんです(笑)。でもそこから『私たちはできる』という意識に変わっていった。『一番になりたい』と思っているうちは獲れないけれど、今年は『一番を獲る』と本気で狙いにいった。これ以上ない悔しさも忘れず、それぞれが覚悟を持って、成長して、今日を迎えることができました」

 すべての始まりは、2015年6月1日。

 体育館内の食堂には、尋常ではない緊張感が漂う。入団2年目のミドルブロッカー、小川杏奈は、完全にびびっていた。

「オフの日の朝、部長から電話がかかってきたんです。寝起きのぼーっとした状態で出たら『新しい監督が決まりました。吉原知子さんです』と。次の瞬間、え? あの日本代表の闘将ですよね、って。厳しい顔で戦っている印象しかないし、とにかく怖い(笑)。それからのオフも楽しめず、合宿所に戻る足取りはかなり重かったです」

 どれほど厳しい言葉を発するのだろう。身構えていた耳に飛び込んできたのは、想像を遥かに上回る、吉原が掲げた目標。

「このチームで、トップを獲りにいくよ!」

蔓延していた「負け犬根性」。

 竹下佳江や大友愛、キム・ヨンギョンを擁し、'11年に初優勝を果たしたJTマーヴェラスだが、小川が内定選手として同行して間もない'13/'14シーズン後半はケガ人も相次ぎ、入替戦で敗れ、チャレンジリーグに降格した。翌年、1位で昇格のチャンスを得るも、入替戦で敗れて叶わず。そのタイミングで吉原が就任したのだが、いきなり発せられた「トップを獲る」という言葉に、面食らったのは自分だけではなかった、と小川は振り返る。

「どん底でしたから。私たちは大丈夫なんだろうか、という不安のほうが大きいし、ましてや今は下のリーグにいる。『トップを獲りにいこう』という雰囲気ではなかったし、トップなんて経験したことがないからわからない、というのが本音でした」

 降格、そして逃した昇格。二度、自信を失い、知らぬ間に「負け犬根性」が蔓延していた。その状態でチームを率いる。当然ながら、吉原には覚悟があった。

「能力はあるし、いい子ばかり。でも人とぶつかり合うのは嫌だから、我関せず、なんです。コートの中でやるべきことを果たしてくれればそれでいいのかもしれないけれど、バレーボールって、サーブ以外は必ず人と関わるスポーツなのに、その根本である意思疎通ができていない。練習も高校の延長でやらされている感があったので、まずはそこから。『できてもできなくてもいい、はありえない。私は、できるまでやるから』と選手の前で宣言しました」

「足裏の皮が初めてむけました」

 誇張でも脅しでもないことは、練習ですぐに思い知らされた。6対6でコートに入り、最後は強打ではなく緩く打って返す。一定時間、ラリーを続けるのが目的なのだが、そこで吉原が求めたのは1つ。攻守が目まぐるしく入れ替わる中でも、しっかり助走をするために、アタッカーは必ずアタックラインまで下がること。文字にすれば、何てことはない。だが、2分間ほど続くこの練習が地獄だった、と小川は言う。

「いつトスが来るかわからないので、ジャンプも全力でしないといけないんです。そのためにはしっかり下がって跳ばなきゃ、と頭ではわかっているけれど、身体がついていかない。するとすぐ、ピピッと笛が鳴ってトモさんが言うんです。『ネットにへばりついて、何するの? セッターの邪魔になるから、サボらないで』って。下がらなければ、たとえ残り10秒だろうと笛が鳴ってやり直し。常に動き続けなければならないし、足裏の皮が初めてむけました」

 言わずもがな、これだけが特例ではない。小川と同期のアウトサイドヒッター田中瑞稀にも、忘れられない「あの夜」がある。

 日本代表合宿から戻った直後で、全体練習には参加せず寮の部屋で休んでいると、明らかな異変を感じた。いつもならば、20時頃には自身の部屋の前にある風呂場で人の気配を感じるのに、その夜は静まり返っている。21時、22時と時計の針が進み、23時を指す頃、さすがにおかしい、と体育館を覗くと、まだ練習が続いていた。

 理由は、翌日の練習ですぐ解明された。

根性を鍛えろ、ではなく。

「サーブレシーブを10本中何本Aパスで返せるか。何本返せ、ではなく、最初に『何本返すの?』と聞かれて、申告したその本数をちゃんと返せるまで終わらないんです。やればやるほど自信がなくなってきて、正面のチャンスサーブすら返せない(笑)。常に自分ができるギリギリまでチャレンジしないといけないし、できないと終わらない。思い出そうとしても記憶がないぐらいきつかったですけど、そのおかげで技術だけじゃなくメンタルも鍛えられました」

 やはりスポ根か。そう思うかもしれないが、その1つ1つには、ただ根性を鍛えろ、ではなく、取り組むべき理由がある。上背に恵まれる選手ばかりが揃うわけでもなく、なおかつ、失った自信を取り戻すために必要なこと。吉原は言う。

「これだけやったんだから絶対勝てる、という裏付け、精神的な支えになるものをつくらないと絶対に勝てないと思っていました。だからできなければ、しつこく言うんです。『体力がないからできないの? それとも自分の心に負けているわけ?』って。そう聞けばみんな『自分に負けていると思います』と答える。だったら、やりなさいよ、と。大きな選手ならば一歩助走で簡単に高く跳んで決められるけれど、小さな選手はしっかり開いて、助走を取って跳ばないと同じ高さには届かない。普通なら一歩のところを倍以上下がる分、当然体力は使う。でも動き続けないと戦えないから動こうよ、というのが私の求めるハードワークなんです。しんどい練習で選手を転がして、と思われるかもしれないけれど、何でもかんでも厳しいわけではないですよ(笑)」

退任も考えた昨年のファイナル3。

 就任1年目に昇格を果たし、翌シーズンからはプレミア(V1)リーグで4位、準優勝、3位。順位だけを見れば昇格後は常に上位につけ、順風満帆に見える。だが、吉原が「これ以上ない」と振り返った、今も色濃く残る一戦。それが、決勝進出をかけた昨年のファイナル3だった。

 東レアローズと2戦を戦い、初戦を勝利しながら2戦目に敗れ1勝1敗。わずかな休憩時間を挟んで行われた25点1セットマッチのゴールデンセットの末に敗れ、片手でつかんでいたはずの決勝進出が、スルリとこぼれ落ちた。

 敗因はいくつもある。得点源である外国人選手の感情をコントロールできず、そこから生じた不協和音。長い年月をかけて積み上げて来た成果を発揮するどころか、相手の流れを止められず、一気に崩れてしまったこと。コートに立った選手は、心に深い傷を負い、中には「もうバレーボールをしたくない」と引退を決意した選手もいた。

 何もできなかった、という後悔。それは吉原も同じ。「自分はこの先も勝たせてあげられないのではないか」と、監督を退くことも考えた。だが、選手の覚悟が、今度は吉原を踏みとどまらせた。

選手同士で指摘、育ったチーム力。

「『負けたまま終われない。絶対にこのチームで勝ちたいから、私たちは辞めません』と。それなのに私が辞めるなんて、何を言っているんだ、と思うじゃないですか。選手たちが『絶対一番になる』と言うなら、絶対に勝たせないといけない。勝たせる、できる、と自分に言い聞かせました」

 就任1年目を彷彿させるように、練習時に状況判断や1本1本の精度にこだわり、その都度「それでいいの?」と追及する。ただ、就任当初と決定的に違ったのは、もっとこうしたい、という要求を吉原だけでなく、選手同士でも指摘し合うようになったこと。小川が言う。

「パスが返って、いいトスが上がって、ブロックも1枚なのに決められなかったら、『今のは絶対決めてよ』と。そこを『いいよ、いいよ』で流してしまったら、その選手も試合で同じ状況になった時に困るし、負けるかもしれない。こんなことを言ったら嫌われるとか、後先のことなんて考えていられない。勝つために全員が必死でした」

 とはいえすべてが、厳しさばかりで育つわけではない。ルーキーセッターの籾井あきがまさにそう。重責を抱えながら、全試合に出場した籾井を支えたのが、セッターのチーム力だった、と田中瑞稀は言う。

「もっとこういうトスが欲しいとか、勝負するポイント、アタッカーがうまく伝えきれない細かな部分を、(田中)美咲さんや(柴田)真果さん、(山本)美沙が同じセッターとして通訳じゃないけれど、うまく伝えてくれました。籾井がすごく頑張ったのは間違いないですが、実際試合でも苦しい時は真果さんが立て直したり、最後まで籾井のいいところを出しきれたのは、周りの力も大きかったと思います」

吉原が就任して5年「愛溢れるチームに」。

 就任したばかりの頃は互いに関心がなく、グループ分けをして「今から1時間、お茶して何でもいいから話をしてきて」とコミュニケーションの取り方に重きを置いた。体育館に使い終えたテーピングが落ちているたびに「汚い!」と叱りつけたこともある。“説教オバサン”と自らを揶揄しながら、5年で生じた変化に吉原も目を細める。

「誰だって試合に出たいのに、自分が、じゃなく、人を支えることに徹する。美沙は機嫌が悪くなるとわかりやすいぐらい顔に出すし、美咲は周りとコミュニケーションを取るのが苦手で指摘すればすぐに泣く。そんな子たちが、びっくりするぐらい成長して、変化して、チームのために、と尽くしてくれた。コートに立つ選手ばかりでなく、出られなかった選手やユニフォームを着られなかった選手が、点を取った選手以上に大喜びする。誰かのために、と頑張って、本音でぶつかり、喜べる1人1人の存在が、このチームのすべてでした」

 優勝直後の記者会見。チーム内で最もキャリアが長い芥川愛加はこう言った。

「吉原監督が来たばかりの頃は毎日しんどくて、言っていることを理解するのに時間もかかりました。でも今はバレーボールの理解が深まり、仲間への思いやり、愛溢れるチームになった。吉原監督に出会えて、その一員として自分も変化しながら、優勝することができた。これからも、もっといい景色をみんなで一緒に見たいです」

 多くの試合が中止となり、我慢の今も、次の頂を目指す吉原の視線はぶれない。

「1回勝つのも大変ですが、トップに君臨し続けるのはもっと大変。選手にしっかり伝えて、ここからどういう形でまたやっていくのか。じっくり考えます」

 一度頂点に立ったぐらいで、妥協などあるはずがない。今はまだ、最強軍団へとつながる序章に過ぎない。

吉原 知子Tomoko Yoshihara

1970年2月4日、北海道生まれ。'88年、日立に入団。'95年、イタリアに渡り、日本人初のプロ契約選手に。帰国後はダイエー、東洋紡、パイオニアで活躍。オリンピック3大会に出場。'15年JTマーヴェラス監督に就任。

文=田中夕子

photograph by Takuya Sugiyama