筆者はもともと家で仕事をしていたが、それでもテレビで居酒屋のシーンが出ると「3密」とか「濃厚接触」とかいう言葉が浮かんで眉根をひそめたくなる。気持ち的にも新型コロナ禍の影響がじわじわ来ている感じだ。

 じーっと家にこもって野球のことばかり考えているなかで、すごい年だったなと思い返すのが「1988年」だ。今から思えば、実質的な「昭和最後の年」であるこの年を境に、日本野球は大きく変わったのだ。

 この年を時系列で振り返りたい。

 1月19日、長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一が競技者表彰で野球殿堂入りした。

 当時、長嶋は51歳。8年前に巨人監督を辞してから浪人中だった。

 この年のソウル五輪にはレポーターとして参加し、背泳で金メダルを取った鈴木大地(現スポーツ庁長官)をドーピング検査場まで出かけていって祝福。ここで「検問をなぜ突破できたか」が話題になった。また、先日物故した関根潤三からヤクルト監督就任のオファーを受けたものの、断っている。

東京ドーム初戦は江川の引退試合。

 3月18日、完成した東京ドームで初試合である巨人と阪神のオープン戦が行われる。日本初のドーム球場は両翼100m、中堅122m。元の後楽園球場は両翼90m、中堅120m。

「こんなでかい球場でホームランなんか出るのか?」と言われたが、以後、このサイズがNPBのスタンダードとなり、以後、ほとんどの本拠地球場がこのサイズになる。かつては「狭い日本の球場で打ったホームランと、MLBのホームランと比較するのはナンセンス」と言われたが、これ以降、日米のギャップが解消されていく。

 なお、このオープン戦は江川卓の引退試合だった。「東京ドームができるまで頑張りたい」と言っていた江川だが、その願いは現役としては果たせず。真新しいマウンドに立った江川は、ライバル掛布雅之から三振を奪った。

 そして東京ドームは、巨人と日本ハムの本拠地となった。

20歳清原に負けない40歳門田の打棒。

 4月23日、南海ホークスの川勝傳オーナーが死去。86歳。野村克也の最大の理解者であり、1977年には「泣いて馬謖を斬る」思いで野村を放出。大きなニュースではなかったが、この人物の死が秋の「球界再編」の伏線となった。

 5月22日、南海、門田博光がパの打撃三部門でトップに立つ。2月26日に40歳になった門田はこの年絶好調だった。

 筆者はこの年、門田を見るために大阪球場に日参した。この年の門田は迷いがなく、試合前の打撃練習では3年目・20歳の清原和博にも負けない打球を飛ばしていた。左打席でバットをぴたりと構えて狙いを定め、胸のすくようなホームランを右翼席に叩き込んでいたのだ。

 このころの南海は「何回やっても勝てません」と揶揄されるくらい弱かったが、門田の活躍もあって6月には一瞬だが2位になっている。

クロマティに代わって呂明賜が……。

 6月14日、巨人は前日にクロマティが死球で左手親指を骨折。代わって昇格した台湾出身の呂明賜が神宮球場のヤクルト戦で初打席初本塁打を放つ。呂はここから10試合で7本塁打。まさに大ブレークを果たした。

 ラジオ体操第2の「腕を大きく振って斜め上に」みたいなフォロースルーは強烈だった。広いと言われた東京ドームでも3発。新しい時代の到来を感じさせた。

 そしてこの時期、スポーツ紙などで「南海ホークス身売り」のうわさが流れ始める。大阪球場に通い詰めていた筆者は“まさか”と思ったが、南海に深い愛情を注いでいた川勝オーナーの死去直後から出た噂だけに、不気味なものを感じていた。

 8月後半、門田は西武・秋山幸二と激しい本塁打争いをしていた。8月はともに8本塁打ずつを打って32本で並ぶ。しかし門田は9月3、7日と打ち、8日の近鉄戦で2発。36号となり、40歳でのMLB本塁打記録である34本(1987年ダレル・エバンス)を抜く。いよいよタイトルが見えてきたのだ。

 しかし9月14日、新聞の夕刊は一斉に「南海、ダイエーに身売りへ」と報じた。

掛布の引退、南海ラストゲーム。

 バブルの兆しが見え始めた大阪の一等地にあって、常に閑古鳥が鳴いている大阪球場の存在が問題になりつつあった。川勝オーナーに代わった南海の吉村茂夫オーナーが、中内功社長率いるダイエーへの売却を決めたのだ。

 この日、二軍落ちしていたミスタータイガース掛布雅之が大阪で引退を宣言する。1985年の劇的な優勝からわずか3年、手首への死球を受けるなど満身創痍での引退だった。

 関西の野球ファンにとっては、忘れられないショッキングな日になってしまった。

 9月16日、大阪球場での南海―阪急戦。阪急の塩辛声の応援団長が、三塁側のスタンドから「南海ホークス、さいならー!」と大声で叫んだ。一塁側は声もなし。

 このころ大阪球場に、南海本拠地最終戦のチケットを買いに行った。すでに一塁側は売り切れていて、三塁側しかなかった。しかし球場内の「ハードロック・カフェ」には誰もいなかった。コーヒーを飲みながら、閑古鳥しかいないこの球場がいっぱいになるとは想像もつかなかった。

 10月16日、南海ホークス最後の日。相手は近鉄。3万2000人の大観衆の前で、南海ナインはファンに最後のお別れをした。「毎試合これくらい来ていれば身売りなんかせずに済んだのに」。個人的にはそう思った。

「行ってまいります」杉浦忠監督が観客席にあいさつをして、南海ナインはグラウンドを一周した。姿を見せた吉村オーナーにスタンドから「お前もダイエーに買うてもらえー」と言う声が飛んだ。

近鉄に待ち構えていた「10.19」。

 しかし近鉄ナインは「南海最後の日」の感傷に浸っている余裕はなかった。西武ライオンズとデッドヒートを繰り広げていたのだ。

 そして10月19日がやってくる。この日のダブルヘッダーでシーズン終了。西武は10月16日に73勝51敗6分、勝率.589で一足先にフィニッシュ。近鉄は73勝52敗3分、勝率.584。ゲーム差0.5。勝率で西武を上回るためには、連勝する以外になかった。

 川崎球場は、超満員の3万人。第1戦は3−3で最終回に1点を入れた近鉄が、エースの阿波野秀幸をクローザーに起用して逃げ切る。

 余談だが、筆者は当時勤めていた会社の残業のために梅田の定食屋で夕食を食べながらテレビ中継を見ていたが、あまりにすごい展開のために、思わずビールを頼んでしまったほどだった。

試合中に阪急身売りのニュースが。

 そのころ、ちょうど同時進行で「阪急も身売り」というニュースも飛び込んでくる。

「オリエント・リースって何の会社や」と同僚と話したのを覚えている。オリエント・リースは翌年、オリックスと社名を改めるのだ。

 第2戦も7回まで3−3、近鉄は8回に1点を奪い、また阿波野を投入するが高沢に一発を食らって並ばれる。

 この日の中継は大阪・朝日放送が担当していたが、系列のテレビ朝日の全国中継になる。多くの番組が消えて、ついに看板ニュース番組の「ニュースステーション」まで久米宏キャスターの英断で、中継が延長されたのだ。

 かくいう筆者も定食屋から会社に戻ると、仕事そっちのけで会社のテレビに見入っていた。

 9回裏、ロッテの古川慎一の走塁をめぐって有藤通世監督が猛抗議。当時の規定では、4時間を過ぎて新しいイニングに入らないことになっていた。有藤監督の9分にわたる抗議によって、この試合は10回で打ち切られることになった。

 最下位だったロッテ有藤監督の“空気を読まない”抗議に、我々テレビの向こうの視聴者は切歯扼腕したものだ。

阪急最後の試合もロッテと対戦。

 近鉄に残されたのは10回表だけ。3番ブライアントは一ゴロ失策で出塁したが、4番オグリビーは三振。羽田耕一の併殺打で近鉄の優勝は夢と消えた。

 10回裏、ロッテの攻撃が残っていたが、球場もテレビ中継のマイクも、静かなものだった。試合はそのまま結局引き分け。優勝した西武と近鉄の勝率差はわずか1厘4毛だった。

 この球史に残る「10.19」は梨田昌孝、吹石徳一、ベン・オグリビーらにとって現役最後の試合になった。

 10月23日、阪急ブレーブスも最後の日を迎える。本拠地は変わらなかったが、プロ野球設立以来の「阪急」という暖簾を53年目にして降ろすことになったのだ。

 この日もロッテとのダブルヘッダーだった。

 2試合目の先発は山田久志。9回自責点1で完投したが、この試合を最後に引退。通算284勝だった。

なぜか福本も引退することに。

 そして試合終了後、グランドに整列した阪急ナインを前に、上田利治監督がファンにあいさつをした。しかしここで思わず「去る山田、そして福本」と言ってしまった。

 山田久志と同期の福本豊は引退する気はなかったが、上田監督の言葉で引退を決意したという。当時の夕刊紙には「監督が(皆さんの前で)言うたんやから」という福本の言葉が大きく踊った。人柄がよく表れている。

 福本と同学年の門田博光は40歳にして本塁打王、打点王。MVPにも輝いた。ちなみに40歳でのMVPは、2019年時点でも門田だけだ。

 その一方で東京ドームでの本塁打は前年の後楽園球場と比較してどうなったかというと……セ・リーグ主催試合が125本から79本。パ・リーグ主催試合が109本から72本と大きく減少した。しかし今では東京ドームは「ホームランが出やすい球場」に変貌しているのだから、時代の変化を感じる。

 この年の日本シリーズは西武が4勝1敗で中日を下しているが、シーズン中のあまりにも濃厚な話題の前に影が薄くなった。

 32年後の今にして思えば、昭和最後のシーズンである1988年は「ドーム球場」、「球場の大型化」、「アジア出身選手の活躍」、「電鉄系球団の撤退」、「球団の地方移転」、「パ・リーグへの注目度の高まり」、「高齢選手の活躍」など、その後のプロ野球のトレンドが、一挙に萌芽した年のように思う。

 2020年は全く別の意味で、節目の年になるのは間違いない。ウイルス禍が明けるときに、どんな歴史が、我々の目の前に広がっているのだろうか。

文=広尾晃

photograph by Makoto Kenmizaki