『Sports Graphic Number』は創刊1000号を迎えました。それを記念してNumberWebでもライター陣に「私にとってのナンバー1」を挙げてもらう企画を掲載しています! 今回はフィギュアスケートを中心に取材を続ける田村明子氏が、怪我をしていた王者・羽生結弦が平昌五輪に向けて高らかに“復帰宣言”した瞬間を描きます。

 2018年2月6日、自宅のあるニューヨークから東京経由でソウルに飛んだ。目的地はソウルからさらに電車で2時間あまりの江陵。およそ3週間に及ぶ、平昌冬季オリンピックの取材のためだった。

 ライターになってから迎える、6度目の冬季オリンピックだった。4年に一度の特別な大舞台とは言うものの、胃の中に石が詰まったように、身体も気持ちも重かった。

 江陵は1年ぶりだった。2017年2月、オリンピックのテストイベントとして本番用の会場で四大陸選手権が開催されたのだが、運営上の不手際が目立った大会だった。

 現地の運営スタッフ、ボランティアたちの態度も、お世辞にもフレンドリーとはいえなかったのは、私が日本人だからということもあったのだろうか。

 できることなら二度と戻りたくないと思ったあの荒涼とした土地で、これからたっぷり3週間過ごすことになる。

 仁川空港から鉄道に乗り換えて、江陵に近づくにつれ気持ちが沈んでくるのを抑えるのは難しかった。

羽生結弦の情報が、ほとんど入ってこない。

 気分が重かった理由は、もう一つあった。

 オリンピック2連覇がかかっている羽生結弦の情報が、ほとんど入ってこないことだった。

 2017年11月9日、NHK杯の公式練習中に右足首の靭帯を損傷してから、平昌オリンピックまでの3カ月、彼の姿を目にした報道関係者はいなかった。日本スケート連盟を通して、1月に練習を再開したという発表があったほかは、彼がどのような状態でいるのか、誰も知らなかった。

五輪では何が起こるかわからない。

 2006年トリノオリンピックでは、ミシェル・クワンが現地入りしてから欠場発表の記者会見をした。

 2014年ソチオリンピックでは、皇帝エフゲニー・プルシェンコがロシアに団体戦の金メダルをもたらした後に、負傷のため個人戦を棄権する事態になっている。

 最後の最後まで、何が起きるのかわからない。

 白状すれば当時、筆者は毎日朝起きてメールをチェックするのが恐ろしかった。「羽生、平昌オリンピックを断念」というプレスリリースが入って来てはいないかと、心臓がドキドキした。

記者たちの間に緊張感が漂う。

 だが懸念したような発表はないまま、2月11日に羽生が無事に韓国入りを果たした。

 そしてその翌日、江陵の練習リンクに姿を現したのだった。一般客は入場できないこのリンクのわずかな観客席は、当然のことながら世界中の報道関係者でびっしりと埋まっていた。

 16台も並んだテレビカメラの前で、羽生は氷の上に降りた。

 ちょっとかがんで氷にタッチしてから、羽生はゆっくりと氷の上に大きな円を描いていった。足元を確かめるように、時間をかけて丁寧にエッジでパターンを描き続けた。

 身体が温まってきた羽生がジャンプに入る姿勢になるたびに、記者たちの間に緊張感が漂い、ペンを持つ手に力が入る。

 1回転トウループ、ワルツジャンプ、1回転ループ。

 氷の上に出るのが待ちきれないようにして、出だしから勢いよくポンポンとジャンプを見せてきた以前の羽生とは、別人だった。

全員が、その瞬間息を止めた。

 これでは羽生がどこまで回復しているのか、計りようがない。本当に、試合に出られる状態まで戻ってきているのか。食い入るように羽生を見つめる関係者たちの張り詰めた緊張感で、リンクの冷たい空気が一層冷たく感じられた。

 その瞬間、羽生がポン、と3アクセルを跳んだ。

 まるでこの3カ月のブランクなどなかったかのような、軽々としたジャンプ。筆者を含め、会場にいた全員が、その瞬間息を止めた。

 羽生は子供の頃、恩師の都築章一郎コーチに「アクセルは王様のジャンプ」と言われて、3アクセルに何よりも練習の時間を費やしてきたという。「どんな体勢でも、大概跳べます」と形容したこともある。

 もちろん、5種類もの4回転ジャンプが試合で跳ばれるようになった現在、3アクセルはもう「王様のジャンプ」ではなくなったのかもしれない。

 だがあの3アクセルは、羽生結弦が世界に発信した「復帰宣言」に見えた。

「最後の最後に支えてくれたのは、3アクセル」

 羽生結弦がオリンピック2連覇を果たした翌日、ジャパンハウスで行われたメダリスト会見で、彼は満ち足りた穏やかな表情でこう口にした。

「自分にとって、最後の最後に支えてくれたのは、3アクセルだった」

 新著『翼を羽ばたかせて 世界のトップスケーター12人がつむぐ氷上ものがたり』(双葉社)にも詳しく書いたが、現在の羽生が競技活動を続けていくモチベーションの1つは、4アクセルを試合で成功させることだ。その理由を平昌の会見で説明していたときに、出た言葉だった。

 フリーで羽生は、4サルコウを2度、4トウループを一度きれいに成功させた。二度目の4トウループでステップアウトした直後、3アクセル+1ループ(現在オイラーと改名)+3サルコウで、立ち直りを見せた。

紛れもなく「王様のジャンプ」だった。

 でも羽生が言った「最後の最後に支えてくれた」3アクセルというのは、3カ月ぶりに世界中の報道関係者と16台のテレビカメラに囲まれるというプレッシャーにさらされた公式練習で、ぽんと跳んだ3アクセルのことでもあったのではないだろうか。

 万が一、彼が初日の公式練習で転んでいたら、もちろん世界中に報道されていただろう。我々記者たちも「大丈夫なのだろうか」と不安になっただろうし、本人のメンタルにも影響があったかもしれない。

 だからこそ、羽生は「どんな体勢でも跳べる」という自信のあった3アクセルを跳んでみせた。オリンピック2連覇への流れは、あの初日の公式練習で決まったのではないかと思う。

 スタンディングオベーションに包まれた羽生のショパンのSPも、SEIMEIのフリーも、もちろん生涯消えない記憶となって残っている。

 だが平昌オリンピックでもっとも印象深かった瞬間を切り取るのなら、まだ本調子ではなかった羽生があの公式練習で3アクセルをきめて、王者としての矜持を見せたときだったかもしれない。

 彼が降りたのは、紛れもなく「王様のジャンプ」だった。

文=田村明子

photograph by JMPA