「ピンポーン!」

 ドアを開けると、そこにはドーピング検査員、ではなく、宅配便の配達員がボックスを持って立っている。

 ボックスの中身はドーピング検査のキット。送り主は米国反ドーピング機関(通称、USADA)。受け取った選手たちは、このキットを使って、自分でドーピング検査を行う。

「新型コロナウィルスの影響で、ドーピング検査の数が減少している。そのため東京五輪で違反者が増加する可能性がある」

 新型コロナウィルスの感染者が増加し、外出や移動の規制が始まると、米国や英国の反ドーピング機関は上記のような懸念を表明していた。

 競技会外検査(通称、抜き打ち検査)のために検査員が訪問することができない状況となり、もし訪問してもソーシャルディスタンスの6フィート(約2m)をとるのは難しく、事実上、検査は凍結された状態になった。

 そんな中、米国反ドーピング機関が新たに採用したのが、「オンライン抜き打ちドーピング検査」だ。

選ばれたのはメダル候補の15選手。

 米国反ドーピング機関は「プロジェクト・ビリーブ2020」というプロジェクトを発足。東京五輪でメダル候補の陸上のノア・ライルズ(ドーハ世界陸上200m金メダル)、アリソン・フェリックス(ロンドン五輪200m金メダル)、ケイティ・レデッキー(水泳、リオ五輪4冠)など、陸上、水泳、自転車などの競技から選ばれた15選手が、任意でこのプロジェクトに協力している。

 同機関のトラビス・タイガート会長は「新型コロナウィルスの影響で、ドーピング検査が行えない状況になっている。そのため、来年、東京五輪で活躍した選手たちがもしクリーンでも、『ドーピングしていたのではないか』と疑われる可能性もある。このプロジェクトの目的は、クリーンな選手の潔白を証明するためのもの」と話す。

 ドーピング検査は、禁止薬物を使用している選手を見つけるためのもの、と思っている人も多いかもしれない。確かにそれも目的の1つだが、クリーンな選手にとっては、自身がクリーンであることを証明する機会でもある。

「ずるをする可能性はないの?」

 ちなみに同機関は2008年にも同じ名前のプロジェクトを行っていた。北京五輪のメダル候補の選手たちから定期的に尿と血液を採取し、新たな分析、解析方法を探っていた。その手法は、現在多くの違反者を見つける『生体パスポート』の礎になっている。

 2008年の検査では、選手が検査場所まで赴かなければならず、心身ともに負担が大きかった。しかし今回は、自宅で検査ができるため、協力している選手の負担は前回と比べると少ない。

 通常であれば検査員が検査キットを持参し、尿や血液を採取するが、今回導入された新たな検査では、宅配で届いたキットを使って、選手たちは自分で尿と血液を採取し、検体を検査機関に送り返す、という仕組みだ。

「検査員がいないのにどうやって採取するの? ずるをする可能性はないの?」

 抜き打ち検査を受けたことがあるアスリートは、こんな疑問が浮かぶのではないだろうか。

テレビ電話機能で選手と検査員がやり取り。

 まず、検査キットを受け取った選手は、検査員からの電話連絡を待つ。通常の抜き打ち検査と同じで、検査員は選手が指定した時間に電話する。

 ここからの流れがとても興味深い。

1)選手はPCや携帯電話のズームやFaceTimeなどの機能を使って、トイレの中を検査員に見せる。これはトイレの中に他の人がいないかを確認するため。

2)その後、PCもしくは携帯をトイレが見える場所に置いたまま、検査キットを持ってトイレに入る。
通常は検査員がトイレまで入って採取の現場に立ち会うけれど、オンライン検査ではセキュリティやプライバシーの問題もあるので、撮影はしない。例えばテレビ電話機能のアカウントがハッキングされて、トイレで用を足している場面が世間に出回ったりしたら、とんでもないことになるからだ。

3)トイレから出たら、付属の温度計で採取した尿の温度を計って、画面の向こうにいる検査員に見せる。

「なぜ、尿の温度を計るの?」と思われる人もいるだろう。

 これは検体のすり替えを防ぎ、その場で採取した検体かどうかを確認するためだ。

 ドーピングをしている選手がいた場合、あらかじめ『クリーンな日』の尿を採取し、トイレの中でキットにいれる可能性もあるからだ。

 しかし、事前に尿を採取していたら、保温機能のある機械などで保存していない限り、尿の温度は室温まで下がっているはずだ。

 さすがに今回、プロジェクトに参加している選手たちの中に尿のすり替えをするような選手が居るとは思えないが、オンライン検査の可能性、確実性を試す上では欠かせないステップだ。

4)キット内にある短い針を腕に刺して血液を採取し、ケースに入れる。これはドライブラッド(Dry Blood)と呼ばれる手法で、今回新たに導入された。

5)尿と血液の献体が入ったケースを箱にいれ、翌日着の宅配便で検査機関に送り返す。

 以上が検査の流れだ。

これまでは居留守を使う選手もいた。

 米国反ドーピング機関は、数年前からオンラインを使用したドーピング検査の導入を進めてきたが、今回のコロナ禍で、予定よりも早く採用することを決定。

「最初は選手とのやり取りがスムーズにいかないこともありましたが、お互いになれてきて、現在は迅速に進められています」と担当者は話す。

 このプロジェクトが成功したら、次はほかの選手たちにも導入することになるだろう。これまでは居場所情報をきちんと登録しなかったり、登録した場所にいなかったり、居留守を使って競技会外検査をすっぽかす選手もいた。

 玄関のインターホンが壊れていた、朝早くに家族を起こすのが嫌だったから返事をしなかったなどと言い訳をして、競技会外検査を受けなかった選手も過去にいたが、そういった言い訳も通用しなくなるだろう。

 残念ながらスポーツ界は禁止薬物を使用する選手が後を絶たず、反ドーピング機関とつねにイタチごっこを繰り返している。このオンライン抜き打ち検査が、薬物違反をする選手たちを捕まえる1つの方法になるのか、要注目だ。

文=及川彩子

photograph by AFLO