楢崎正剛の言葉がすべてを物語っていた。

「(1点リードしていて)残り時間が少なくなってきて、それなのに『終わらんといてくれ』という気持ちもあって……」

 1999年元日、天皇杯決勝。先に失点し、同点に追いついて、後半勝ち越した。2対1とリードして、チャンピオンまで残りわずか。

 しかし、試合終了を告げる笛は、彼らにとって文字通り“最後のホイッスル”でもあった。

 午後3時半、快晴の国立競技場に、歓喜の、そして惜別の瞬間が訪れる。

 横浜フリューゲルス、日本一。そして消滅――。

 ピッチになだれ込んだ選手、スタッフたちが拳を突き上げながら泣いていた。ゴール裏でもサポーターたちが飛び跳ねながら、やっぱり泣いている。

 表彰式で選手会長の前田浩二は胸を張って思いをぶつけた。

「フェアなことをしてください」

 山口素弘が、カップを掲げた後、初めて漏らした。

「この2カ月間、まともに練習なんてできなかった。みんなの精神状態は言葉では言えない。僕自身気持ちを切らさないようにするのが精いっぱいだった。本当に、この2カ月間、本当にしんどかった」

 いまから21年前、雲ひとつない青空の下、横浜フリューゲルスは日本サッカーの頂点に立ち、同時にその歴史に幕を下ろした。

 それは清々しいフィナーレだった。

第一報はトルシエジャパン初陣の夜。

 第一報がもたらされたのはトルシエジャパンの初陣、エジプト戦の夜だった。記憶が鮮明なのは経済部記者からの電話を受けたとき、大阪ミナミの居酒屋で新監督の初采配に口角泡を飛ばしていたからだ。

 国中が盛り上がった日本代表のワールドカップ初出場から4カ月後、新たな日本代表が長居スタジアムでスタートを切ったその夜、悲劇は発覚したのだ。

「合併?」ときょとんとした。

「フリューゲルスとマリノスが合併するよ」

 そう耳にしたとき、きょとんとした気がする。合併? あまりに唐突な単語に反応できなかったのだ。しかし電話の相手は経済部らしく端的に伝えた。

「ゼネコン不況で経営難の佐藤工業が撤退する」、「全日空も単独でサッカーチームを支えられない」、「代わりのパートナーを探したが、見つからなかった」、「そこで横浜をホームタウンとするマリノスとの合併案が浮上した」、「やはり経営危機の日産自動車にとっても渡りに船だった」、「全日空と日産で合意」……。

 それが事態のあらましだった。

「(子会社の)両クラブ社長を通じてJリーグにも通知済みらしいよ」

 そう付け加えて電話は切れた。1998年10月28日の夜のことである。

翌日、あっという間の既成事実。

 翌29日、悲劇はあっという間に既成事実になった。

 朝刊が一斉に「合併」と「消滅」を報じている。東京へ戻る新幹線の電光ニュースにも<横浜フリューゲルス、横浜マリノスに吸収合併>。

 東戸塚のクラブハウスでは選手たちも、その日の午前、フロントから「合併」を伝えられた。寝耳に水だった。チームがなくなる? 自分たちはどうなるのか? 驚きと不安の中、突然の一方的な通告にフロントへの不信感を募らせることになった。

 しかも事態は急速に進展した。同日午後、Jリーグが緊急理事会を開き、そこで合併が承認されたのだ。

 夕方、行われた記者会見では、新たなチーム名が「横浜F・マリノス」となること、新会社は来年2月1日に発足し、その出資比率は日産70%、全日空30%であることなどが早くも発表された。

 その日の夜、サポーターの代表者たちが、フリューゲルスの運営会社である全日空スポーツに呼ばれ、説明を受けた。渡された紙には<新クラブへも倍旧のご支援・ご声援をお願いします>と書かれていた。報道を目にしてからまだ半日しか経っていなかった。もちろん納得できるはずがなかった。

 そこから選手たちとサポーターの「しんどい」戦いが始まった。

発表後初のホーム戦で7−1大勝も。

 横浜国際競技場に「合併反対」のシュプレヒコールが響いていた。

 10月31日、合併発表から2日、初めてのゲームが行われたのだ。セレッソ大阪と対戦したフリューゲルスは吉田孝行がハットトリック、永井秀樹が2ゴールを挙げ、山口もオーバーヘッドを決めるなど7得点を奪い、大勝した。

 しかし、選手たちはまだショックの中にいた。ミックスゾーンで取材を受けながら涙をこらえ、言葉を詰まらせる選手さえいた。

 試合後、全日空スポーツの社長がゴール裏スタンドに現れ、サポーターの前に立った。

「現在の経済状況の中、オーナー2社とも厳しい。運営を任されている全日空スポーツとして努力してきたが……サポーターのみなさまには大変な裏切り行為になってしまい、申し訳なく思っています。これは私ひとりの責任です」

 たぶん経緯を説明して頭を下げるために来たつもりだったと思う。しかし……。

「私たちの希望はチームを残すこと。それだけです」、「サッカーチームは一企業のものではないはず。私たちを無視して決めてほしくない」、「おまえじゃ話にならない。本社の人間を連れてこい」、「サポーターや選手の承諾なしに売ったんですよ、あなたたちは」、「何も全日空に支援してくれとお願いしてるわけじゃありません。せめてフリューゲルスを置いていってください」、「チームはおまえらのものじゃないんだ」……。

 サポーターからの、時に怒鳴り声の、時に涙交じりの訴えが途切れることなく続き、引き上げることができなくなってしまうのである。

夜8時から翌朝7時までの“団交”。

 結局、夕方5時半から始まった話し合いは、10時のスタジアム閉門時刻になっても収まりがつかず、競技場外の西ゲートに場所を移して続けられ……。ようやく散会したときには午前3時を過ぎていた。

 さらに2日後、11月2日にも徹夜の“団交”は行われた。このときはサポーターからの要求で、親会社である全日空と佐藤工業からも担当者が出席したが、夜8時から始まった交渉は翌朝の7時まで続いたのだ。

 夜を徹しての話し合いを終えたサポーターたちはそのまま広島へ向かった。この日、サンフレッチェとのアウェイゲームがあったからだ。

 そんな彼らに報いるようにチームも勝利を飾る。久保山由清、レディアコフのゴールで2対1。これで2連勝だった。

「誰でもいい、助けてくれ!」

「Jリーグ、企業、誰でもいい、助けてくれ!」

 三ツ沢球技場にエンゲルス監督の悲痛な叫びが響いたのは11月7日。この日がフリューゲルスにとってホーム最終戦。アビスパ福岡を下した試合後のセレモニーで、そう訴えたのだ。

 エンゲルス監督の後、マイクを握った全日空スポーツ社長は「フリューゲルスは新チームで生き続けます」と言って、盛大なブーイングを受けることになる。あまりに場違いな挨拶だった。

 スタジアムの周囲ではサポーターたちが署名集めに励んでいた。合併発表直後から全日空本社やJリーグに合併の白紙撤回を訴えるのと並行して、競技場や横浜駅周辺で署名活動を始めていたのだ。

 選手も参加したこの活動には、ライバルチームのサポーターも協力していた。それぞれのスタジアムでチーム存続を求める署名が集められていた。

 そういえば日本代表の試合で、ウルトラスのゴール裏にフリューゲルスのビッグフラッグが掲げられたこともあった。支援の輪は横浜を越えて、サッカー界全体に広がっていた。

選手、サポーターそれぞれの焦り。

 サポーターだけではない。翌週のシーズン最終節では、Jリーグすべての会場で、選手たち自らがフリューゲルスの旗を振った。彼らもまたフリューゲルス(とマリノス)の選手たちを心配していたのだ。合併に伴い、来季の働き場を失う選手が出る懸念があったからだ。

 折しもJリーグでは「プロ選手枠25人」の新制度が導入されるタイミングでもあった。チームの消滅はすべてのJリーガーにとっての問題でもあった。

 その最終節でもフリューゲルスはコンサドーレ札幌をアウェイで破った。合併発表後、無敗でシーズンを終えたのだ。

 だが、そんな快進撃を喜ぶ一方で、サポーターたちには焦りも見え始めていた。リーグ戦が終了したことで、選手の去就が取り沙汰されるようになったからである。フリューゲルスの6選手にマリノスからの獲得オファーが届いているとも報じられた。彼らに残された時間はわずかしかなさそうだった。

 そして11月16日、チーム存続を求める嘆願書を携えてJリーグと全日空、そして横浜市役所を訪れた。全日空には30万筆を超える署名も提出した。最後のお願い、そんな思いだっただろう。

負けたら本当の終わりの天皇杯。

 しかし、届かなかった。12月2日、両クラブの合併が正式に調印されたのだ。

 このときも不意打ちだった。サポーターたちは怒りに震えながら全日空本社に押しかけた。東戸塚のクラブハウスではエンゲルス監督が「驚きと怒りでいっぱいだ。また何も知らされなかった。我々の気持ちを無視している」と憤りを露わにした。

 これでフリューゲルスの消滅は動かしようもない事実となった。

 最後の戦いが始まったのは12月13日だ。負けたら終わり、その瞬間に本当の終わり。フリューゲルスにとってそんなトーナメントだった。

 初戦の相手はJFLの大塚。しかし2度にわたって追いつかれる苦しいゲームとなった。選手の動きも重かった。それでも後半2得点を加えて4対2で何とか勝利をもぎ取った。

 続くヴァンフォーレ甲府戦は雨のゲームになった。前半はスコアレスだったが、後半佐藤尽と吉田の2得点で勝った。これでもう1試合戦える。

 だがその次戦・準々決勝の相手はジュビロ磐田だった。この年ファーストステージ優勝。得点王とMVPに選ばれた中山雅史をはじめ、ベストイレブンに6人が名を連ねる最強チームだった。

 さらに中3日で行われる準決勝では、そのジュビロを下して年間チャンピオンになった鹿島アントラーズとの対戦が濃厚。いつ終わりが訪れても不思議ではない状況だった。

磐田と鹿島を撃破、そして決勝。

 だが、フリューゲルスは勝ち続けた。ジュビロ戦では同点で迎えた77分、吉田が決勝ゴールを決めた。吉田は、合併発表後、実に11得点。奇跡の快進撃の立役者となった。そしてアントラーズ戦では、その吉田のアシストから永井が目の覚めるようなボレーでJリーグ王者を破った。

 そして――1999年元日、快晴の国立競技場で、決勝戦のピッチに立ったのだ。

 エスパルスに先制を許し、久保山の得点で同点に追いついて迎えた後半、“最後のゴール”を決めたのはやはり吉田だった。

 合併発表直後には、「この先、サッカー続けていけるかわからない不安もあるし、何よりこのチームで続けられるなら、その可能性があるのなら、何とかしたいけど……」と曇った表情で語っていた。

 しかし、すべてをやり尽くしたストライカーの顔には、清々しい笑顔があった。

「このチームで過ごした4年間、その思いを全部ぶつけました」

楢崎や前田が吐露した心の内。

“最後のホイッスル”を聞いた楢崎はピッチで大の字になった。そして、この2カ月間の心中を明かした。

「サポーターの応援がどんどん大きくなってきて、それに返すには僕らはサッカーしかないから。サッカーでしか表現できないから。だから表そうと。まだ終わりじゃないと思いながら。優勝の嬉しさと消滅の寂しさ? 寂しさの方が大きいかな。これから徐々に大きくなっていく気がします」

 表彰式で「フェアなことをしてください」と思いをぶつけた選手会長の前田は、記者に囲まれてからも「フェアなアピールができたと思う」と繰り返し口にして、やっぱり胸を張った。

 義憤に駆られた日々だった。前田自身、怒りを露わにしたこともあった。それでも自らを失うことはなかった。何より彼らはただの一度も負けなかった。Jリーグ4試合と天皇杯5試合、すべて勝って9連勝。日本一の頂に立ち、胸を張って堂々とエンドマークを打った。

国立に掲げられた巨大な横断幕。

 それはサポーターたちも同じだった。怒りとやるせなさに身を震わせながらも、決して暴力に流れることはなかった。だから、あれほどの共感を得た。

 そればかりか存続が叶わなくなってからも彼らは諦めなかった。会社を設立し、再建基金を集め、せめて「フリューゲルス」の名前を譲渡してくれと求め……新クラブ設立へとシフトして活動を続けたのだ。

 最後のゲームが始まる前、サポーターたちは巨大な横断幕を掲げた。

 この想いは決して終わりじゃない
 なぜなら終わらせないと僕らが決めたから
 いろんなところへ行って いろんな夢を見ておいで
 そして最後に… 君のそばで会おう

 最後のゴールの向こうには、そんなサポーターがいて、その向こうには真っ青な空が広がっていた。

 いまから21年前、一点の曇りもない清々しいフィナーレだった。

文=川端康生

photograph by Shinichi Yamada/AFLO SPORT