なかなか収束の糸口が見えてこない、新型コロナウイルスの感染拡大。プロレスも他のスポーツと同様に、現在、興行はすべて中止。この状況が長く続くのは各団体や選手にとって死活問題となるため、プロレス界では今、細心の注意を払いながら無観客試合を動画配信することに活路を見出そうとしている。

 プロレスにおける無観客試合の原点といえば、1987年10月4日に行われた、アントニオ猪木vs.マサ斎藤の“巌流島の決闘”が有名だが、あの大仁田厚もFMWを旗揚げした1年目に無観客試合を行っている。'90年6月24日、東京・夢の島運動公園総合体育館剣道場でのターザン後藤戦だ。

 当時、「ノーピープルマッチ」と呼ばれた無観客試合を“夢の島”で行ったのは、猪木vs.マサの巌流島を多分に意識した一種のシャレであろう。この大仁田vs.後藤が無観客で行われた経緯はこうだ。

「身内のケンカをお客に見せたくない」

 1989年10月のFMW旗揚げ以来、大仁田の盟友として団体を支えてきた後藤だったが、'90年6月になるとフリーとして参戦してきたミスター・ポーゴと行動を共にするようになり、6月9日の海老名大会でついに大仁田と仲間割れ。これをきっかけに両者は対立するようになり、大仁田の「身内のケンカをお客に見せたくない」という考えから、無観客試合として行われることとなったのだ。

 舞台となった夢の島運動公園総合体育館剣道場は、平均的な小中学校の体育館程度の大きさで、興行をするには小さすぎるが、“無観客”には最適だったのだろう。会場の外には、この試合を一目見ようとファン数十人が集まっていたが、完全にシャットアウトし、スポーツ紙やプロレス雑誌のマスコミ関係者だけが入ることを許された。

 こうして無観客の静寂の中で行われた試合は、後半闘いがヒートアップすると、両者は場外乱闘ならぬ“会場外乱闘”を展開し、ファンをよろこばせた。そして再び会場内に戦場を移すと、外からかすかに聞こえる「大仁田コール」の中で闘い続けたが、結果は33分49秒、両者KOの引き分けに終わった。

大仁田が明かした“真相”。

 試合後、大仁田は血だるまでふらふらになりながら会場外で待つファンの前に現れ、「今度はお前らの前で決着をつける!」と約束。そしてこれが8月4日にレールシティ汐留で行われた、今や伝説となっている、初のノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチでの決着戦につながるのだ。

 筆者が先日、この30年前の無観客試合についてインタビューすると、大仁田は「もう時効だよ」と笑いながら、次のように“真相”を語ってくれた。

「あの試合は、『身内のケンカは見せたくない』ってことで、ノーピープルでやったんだけど。まあ、正直に言えば、後藤との一騎打ちを盛り上げるための1つの仕掛けだよな。

 だって、そうだろう。FMWで後藤っていう身内と敵味方に分かれて闘うのは初めてなんだから。それを客を入れて前哨戦をやってしまったら、リアルタイムで客がそれを見ちゃうわけでしょ? そうすると、いざ初の一騎打ちをやっても新鮮味がなくなるんだよな。

 だから前哨戦をやるよりも、ノーピープルで見たくても見れない状況を作って、それを東スポや週プロ、ゴングなんかで報じてもらったほうが逆に想像を掻き立てるからいいかな、と思ってね。

 今の無観客とはまったくケースが違うけど、そういう考えがあったんだよ。あの頃のFMWにおいて、ビッグショーで闘う相手はやっぱりターザン後藤しかいなかったから。それをいかにして盛り上げることができるのかっていう勝負だったからね」

ローラーとファンクの試合がヒントに。

 '90年上半期における大仁田の抗争相手は、“イス大王”栗栖正伸と、ドラゴン・マスターことケンドー・ナガサキだったが、栗栖は新日本プロレスに引き抜かれ、ナガサキも新興団体SWSに参戦したため、夏に予定していたビッグマッチで対戦するにふさわしい相手は、後藤しかいなかったのである。

 その後藤との初の一騎打ちを盛り上げるために、ノーピープルマッチでの前哨戦を行うというアイデアは、大仁田の海外武者修行時代の経験から生まれたものだという。

「(アメリカの)テネシーで修行時代、ジェリー・ローラーとテリー・ファンクが観客がいない体育館で試合をやったって聞いたことがあってさ、それが頭のどっかにあったのかもしれないな」

電流爆破もテネシーでの経験から?

 そう大仁田が語る“元ネタ”となった試合は、'80年代初頭にテネシーで行われたジェリー・ローラーとテリー・ファンクの一戦。地元の英雄ローラーが、ライバルであるテリーとの抗争中、「ふたりだけで決着をつける」として、無観客試合が行われたのだ。

 結果は、テリーがローラーに勝利。ただし、これで抗争が終わるのではなく、ファンの間から再戦のニーズが高まり、あらためて大会場で決着戦が行われることとなったという。テネシーの帝王ローラーは、自分が負けるシーンを観客に見せることなく、リベンジマッチへと観客の興味を煽ったのだ。まさに大仁田が、夢の島でやった手法もそれなのである。

 大仁田と後藤も、夢の島のノーピープルマッチで引き分けたあと、8月4日にレールシティ汐留で再戦が決定。その試合形式は、完全決着をつけるために、史上初のノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチとして行われることに決定する。

 じつは、この試合形式もテネシーでの経験がヒントとなっている。

「毎回毎回が勝負だったからね」

「リングの周りに有刺鉄線を張るっていうのは、テネシーでやってるのを見たことがあったんだよ。ノーロープではなかったけどね。だからそこからヒントを得て、日本でもやってみることにして。さらに夏のビッグマッチでは、野外でこれまでやったことがないデスマッチを模索して、どんなことができるか、会社の人間に調べさせていたんだよ。

 最初はファイヤーデスマッチがいいかと思ったんだけど、火を使うのは、東京都や区の許可がなかなか降りないってことで頓挫してね。それでテレビの特効さんに相談したら、小型カプセルの爆弾があるから、それを爆発させたらいいんじゃないかって話になった。そこから史上初のノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチが生まれたんだよ。

 あの頃、カネもなかったから、なんとかアイデアをひねり出して、誰もやったことがないことをやるしかなかった。毎回毎回が勝負だったからね」

 ロープの代わりに有刺鉄線が張られただけでなく、そこに電流を流し体が触れたら小型爆弾が爆発するという前代未聞の試合は、両者が何度も被爆し、客席から「もう、わかったからやめてくれ!」との声が上がるほどの壮絶な試合となる。

 そして最後はサンダーファイヤーパワーボム3連発で大仁田が勝利。これまでファンが見たことがない過激な試合展開と、大団円の結末に会場は大「大仁田コール」に包まれ、この一戦をきっかけに大仁田人気は決定的となるのだ。

 そして大仁田vs.後藤の電流爆破デスマッチは、この年の東スポ「プロレス大賞」で、年間最高試合賞を獲得。さらに大仁田はMVPにも輝き2冠王となった。

逆境を跳ねのけたアイデアと情熱。

 1990年といえば、新日本で武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士の人気が爆発。全日本も三沢光晴が、新時代の旗手として大活躍した年。彼らを抑えての2冠王が、いかに快挙だかわかるだろう。

 またこの年は、メガネスーパーという企業をバックにした新団体SWSが旗揚げした年でもある。その豊富な資金力によって、「プロレス界全体がメガネスーパーに乗っ取られる」とまで言われたあの時代に、たった5万円の資金で旗揚げしたという極貧伝説を持ち、「すぐに潰れる」と言われた大仁田のFMWが、主役の座をかっさらったのだ。

 その奇跡的成功の1つのきっかけになったのが、夢の島での無観客試合だったのである。

 もちろん、現在のコロナ禍と当時とではまったく状況は異なる。とはいえ、逆境をものともせず、アイデアと情熱、そして実行力ですべてをひっくり返した、当時の大仁田のバイタリティには、今も見習う点がきっとあるはずだ。

 なお、大仁田は'92年6月30日にも関ヶ原でタイガー・ジェット・シンと無観客試合を行っている。これは同年9月19日、横浜スタジアムでの大仁田vs.シンの事実上の“煽り”であったが、やはり二番煎じ感は否めず、そこまで大きな盛り上がりとはならなかった。

 先の見えない現代。この状況を打破する答えをまだ誰も見つけていない今だからこそ、これまでにない発想が求められている。

文=堀江ガンツ

photograph by Hidenori Daikai