人生初の「J1」へ挑戦、プロ初「10番」を背負う――。

 大分トリニータのスピードアタッカー・野村直輝にとって、今季はサッカー人生において勝負の1年となるはずだった。しかし、新型コロナウイルスの影響により、その「10番」を披露したのはまだ1試合、20分程度しかない。

 野村は今、未来にどんな思いを馳せているのか。そしてこれまでのサッカー人生をどう捉えているのか。「新しい10番を構築したい」と語る彼の胸の内に迫った。

今は「引き出し」を増やす時間に。

「開幕戦はずっと思い描いていたJ1の舞台でしたが、(スタジアムの空気に)圧倒されることもなく、これまで通り平常心でプレーすることができました。まだ1試合なので明確ではないですが、味方との連係や戦術を具現化できる手応えは感じることができました」

 スタメン出場こそ叶わなかったが、これまでと変わらぬ姿勢でファーストステップを踏むことができた。だが、ここからJリーグは中断。野村はこのサッカーができない状況を自分と向き合う時間に当てている。

「今は『自分の引き出しを増やす』という意味で本から知識を得たり、かつてのチームメイトと連絡を取って話したりしながら、組織のメカニズムやサッカー選手としてのあり方、その先の自分の人生について学んでいます。この時間を利用して新しい知識を自分の中に入れて、それをプレーやチームに落とし込んでいきたいですね」

 知の蓄積を図る中で、自分の過去も振り返ることができた。その中で転機となったプロ2年目の出来事を語ってくれた。

出番が激減、気持ちが切れた。

 山口県下関市出身の野村は、下関中央工業高校から福岡にある日本経済大学に進学。変幻自在のドリブルと両足から繰り出されるシュートを武器に左サイドアタッカーとして頭角を現し、2014年に横浜FCへ加入した。

 プロ1年目は山口素弘監督(当時)の厳しい指導を受けながらも、リーグ18試合に出場し、3ゴールを記録。上々のルーキーイヤーを過ごしたが、翌'15年はミロシュ・ルス監督の体制に変わると、状況は一変した。

「1年目にほとんどトップチームでプレーできたことで、ちょっと勘違いしてしまっていた部分があった。監督が変わり、戦術も変わったのに、1年目と同じようにやろうとしてしまったんです。練習でチームが2分割された時にサブ組に回って、さらには紅白戦にすら出られない状況になった。グラウンドの隅っこで練習したり、指をくわえて紅白戦を見ていたりと、そんな状況がずっと続いて……。自分の何が悪いのか分からず、ただ意地悪されているんじゃないかと余計なことまで考えてしまい、どんどんフラストレーションが溜まっていきました。

 それである日、気持ちが切れてしまったんです。全体練習が終わったあと、いつもなら残って練習したり、クラブハウスで筋トレやリカバリーをするのですが、『やってられるか!』とすぐに着替えて帰ってしまいました。もう腹が立って仕方がなくて、不貞腐れていましたね、今考えたら」

助けてくれた偉大な先輩たち。

 試合に出られない状況に置かれることは、野村のサッカー人生では初めての経験だった。高校も大学も1年目からチームの主軸として試合に出場し続け、ルーキーイヤーも上手くいった。だが、突然やってきた不遇の時に心の整理がつかなかったのだろう。現状を受け入れる事ができず、反発するしか方法がなかった。

「まだまだ子供でしたね。でも、そこで僕を助けてくれたのが偉大な先輩たちでした。飯尾一慶さん、安英学さん、渡辺匠さんが厳しく注意してくれた。『試合に出られない時こそ人間性が出る』、『試合に出ていない選手の振る舞いも大事だし、出ている選手の振る舞いも大事。絶対に見られているぞ』と。さらに『腐った姿勢を見せるのはもっての外だし、出ている選手も出ていない選手の想いを汲んで、責任を持ったプレーや立ち振る舞いをしないといけない』とプロサッカーチームにおける個人のあり方を教えてもらいました」

 野村は“高卒”ではなく、“大卒”ルーキーだ。20歳を超える大人が、単に腐っているだけであれば「こいつはもういいや」「何を言っても無駄だ」と見放されてもおかしくない。なぜベテランたちは野村に対して愛のある言葉をかけたのだろうか。

 それには、彼の“ある行動”が起因している。

誰もいない夕方の練習場で。

「午後3時か4時くらいになると、選手やコーチングスタッフが帰るので、グラウンドはもちろんクラブハウスにも人がいなくなる。その時間帯を見計らってこっそり戻るんです。当時、僕と同じ境遇だった青木翔大(現・ザスパクサツ群馬)と2人でひたすらシュート練習や筋トレをやっていましたね」

 自らの処遇に耐えきれなくなったものの、サッカーに対する気持ちは失っていなかった。先輩やスタッフは、そんな不器用な姿を見ていたのだろう。だからこそ、あえて厳しい言葉を投げかけ、見捨てることをしなかったのだ。

 野村はそこから心を入れ替え、真摯にサッカーに取り組んだ。ベンチ外の時間は続いたが、隅っこで練習をさせられても、紅白戦に出られなくても、前向きな態度で努力し続けた。その結果、スタッフ陣の彼に対する評価は変わっていった。リーグ終盤には多くの出番が与えられ、2016年以降は不動の主軸にまで成長した。

「あの2年目が今につながっている。試合に出られない選手の気持ちを分かるようになった上で試合に出ると、責任感が全然違う。体を張ってゴールを守るとか、1点の重みはもちろん、サポーターやクラブを運営する人たちの顔が思い浮かぶようになり、『戦っているのは自分だけじゃない』と思いながらプレーできるようになったんです」

横浜FCを離れ、徳島へ移籍。

 押しも押されもせぬ攻撃の要に成長した野村は、2019年に大きな決断を下す。5年間在籍した横浜FCを離れ、同じJ2を戦う徳島ヴォルティスへ移籍した。

「酸いも甘いも、多くのことを教えて育ててくれた横浜FCに対する愛情と大きな恩義はあります。でも、プロサッカー選手という有限の価値の中で、いろんな経験をしたいと考えるようになったんです。なので'18年シーズンが始まる前に横浜FCでのラストシーズンを決めて、『必ずJ1に上げてから移籍する』と心に誓って臨みました。ですが、('18年は)プレーオフまでは進めたものの、自分の力不足もあって昇格できず、サポーターの皆さんには申し訳ない気持ちでいっぱいでした。ただ一方で(そんな覚悟で戦えたからこそ)横浜FCでやりきった思いもありました。

 いろいろなオファーをもらっていた中で、(移籍先を)徳島に決めたのは、攻撃的な選手としての価値をリカルド・ロドリゲス監督のサッカーの中で表現したいと思ったことが大きかった。それに自分が(徳島に)入ったら絶対に合うだろうなという確信もありました」

昇格を逃した野村に届いたオファー。

 さらなる成長を誓う野村の思惑通り、徳島では1年目から中心選手として躍動した。3-4-2-1のシャドーとしてリーグ39試合に出場し、7ゴールをマーク。いずれもキャリアハイの数字を残し、上位進出の原動力となった。

「自分が中心になってやらせてもらっていましたし、リカルド監督の連続した状況判断を伴うサッカーは、自分の引き出しをさらに増やしてくれました。街ではどこに行っても声をかけてくれましたし、徳島という場所にも愛着は凄くありましたね」

 しかし、J1参入プレーオフではJ1・16位の湘南ベルマーレと1−1の引き分け。野村個人としては2年連続でJ1昇格を逃す結果となった。改めて悔しさを味わったが、「結果がすべて」という厳しいプロの世界を生き抜くため、野村はさらなるステップアップの場所を求める。

「(昇格を逃した状況で)大分トリニータが僕を必要としてくれた。自分の力でJ1に行けるチャンス、話をもらえたことが自分の中でかなり嬉しかったし、『ここでJ1にチャレンジしていなかったら、サッカーを辞めた時に後悔するんじゃないか』と自分と向き合った時に思ったんです。チャレンジし続けなきゃいけない運命だろうと」

 覚悟を決めた野村は、さらに自ら重荷を背負うことを選ぶ。2020年シーズン、大分で託されたのは「10番」。大学4年以来となるエースナンバーだ。

「最初は11番を希望したのですが、大学選抜で一緒だった田中達也が『どうしても11番がいい』と言っていましたし、達也からも『10番キャラなんだから』と(笑)。それに10番をつけられるチャンスがあるのなら絶対につけるべきだと思ったので希望しました」

 思わぬ形という側面もあったが、初のJ1を10番で挑むことに大きな意義を見出している。

戦っているのは自分だけじゃない。

「トリニータはJ3も経験しているし、財政危機などを乗り越えてきたクラブ。その中で、資金力で上回られるクラブに勝つなど、大きな価値を生み出してきた歴史があります。大分の人たちにとって“トリニータ”という存在がどれだけ大きくて、街を活気づけるものなのかをまだ来たばかりですが感じていますし、同時にまだまだこれからクラブとしてやれることがもっとあるんじゃないかとも思っています。

 また、今回の移籍は『J1の野村直輝』という看板のためだけにプレーするのではなく、プロ2年目で気づいた『戦っているのは決して自分だけじゃない』という思いを持って全身全霊でプレーしたい。自分と一緒にプレーする人がよりチームのために戦いたいと思ってもらえるような、新しい10番の価値を大分で表現したいし、生み出したいですね」

クラブや地域と共に成長したい。

 J1で戦う意義を深く知る大分トリニータというクラブで、そしてその歴史を築こうと牽引する片野坂知宏監督の下で戦うことで、「新しい10番の価値」は生み出される。彼はそう信じて疑わない。

「片野坂監督は、戦術家で情熱家というイメージを以前から持っていましたが、まさにその通りの人。プレー以外の部分も指導してくれる。その面はかなり自分の中で響くものがありますし、この人のために結果を出さないといけないと感じさせてくれます。

 よくミーティングで『応援してくれる人たちを元気づけるのが俺たちの役目』と言ってくださるんですが、まさにそうだと思うし、その考え方は僕と根本的な部分で一致しています。試合を決定づけるとか、チームの苦境を助ける存在にならないといけないとは思っていますが、そこだけにこだわり続けるのではなく、もっと広い視野を持って、クラブや地域と共に成長していくための力になれる、新しい10番の価値をみんなと協力して作り出したいと思っています」

 今はその価値をより客観的な視点で醸成している最中だ。彼自身はそう解釈しているからこそ、この中断期間を焦りや不安を抱くことなく、まっすぐに未来に目を向けられている。

「新しいリーダー像というか、いつか自分がチームや組織の中で発言をしないといけない時が来ると思うんです。チームの結果が良ければ、そういうのって表面化せずにうまく回っていくのですが、もし結果が出ない時や苦境を迎えた時に、自分に何ができるのかを今からしっかりと考えて準備しておかないといけない。大分に来て、街のポテンシャル、クラブのポテンシャルを感じるからこそ、今はそれを構築しておく時間でもあると捉えています」

 受動的ではなく能動的に発信できるように。それがチームのためになり、最終的には自分の成長につながるように。野村は今、プロ7年目を迎える自分を磨く重要な時間を過ごしている。

文=安藤隆人

photograph by J.LEAGUE