「目を閉じるだけで、いまでも思い出す懐かしい光景だ。練習後、6人の少年たちはいつもふざけ合っていたね」

 自著『MY AUTOBIOGRAPHY』から、サー・アレックス・ファーガソンの穏やかな感情が伝わってくる。6人の少年たちとはライアン・ギグス、ポール・スコールズ、デイビッド・ベッカム、ニッキー・バット、ガリー・ネビル、フィル・ネビルのこと。

 その名も高き、 “ファギーズ・フレッジリングス”(ファーガソンの雛鳥たち)である。

 少年時代の彼らはごく普通、もしくは平均点以下だったという。ギグスはやせっぽちで、スコールズとG・ネビルは上背に恵まれていない。バットとP・ネビルはスピード不足に悩み、ベッカムも10代から煌めいていたわけではなかった。しかし、同年代であるため、お互いがお互いを強く意識していた。

G・ネビルが育てたロナウドの感謝。

「あいつにだけは負けたくない」

 一番の負けず嫌いはG・ネビルだ。

「朝、腹を立てながら目覚めていた」とファーガソンが自伝でからかったように、かみつく相手を一日中、探していた。実弟フィルが同じクラブにいるのだから、恥をかくわけにはいかない。

 もっとも、G・ネビルの好戦的な性格に基づく強気なプレーが、彼を超一流の右サイドバックにのしあがらせた、といって差し支えないだろう。全盛期の彼はつねに戦闘態勢を整え、大型FWにも臆せず立ち向かっていった。

 また、キャプテンとしてユナイテッドを支え、あのクリスティアーノ・ロナウドを一人前に育ててもいる。

「中に入れ、戻ってくるな、プレスしろ、とにかくうるさくてうるさくて、もうウンザリするほどね。でも、ガリーのアドバイスがあったからこそ、こんにちの俺がある。感謝しているよ」

 後にC・ロナウドも、口うるさい先輩に敬意を表していた。

フィル、バットは物静かだけど。

 強気で多弁な兄の影響か、P・ネビルはおとなしかった。

 6人のなかでは最年少。とはいえ末っ子のような駄々はこねず、決して自己主張をしなかった。だからこそ左右のサイドバックで、中盤センターで、あるいは守備固めのサイドハーフで起用されても、常に及第点以上のパフォーマンスを披露できたのだろう。

 試合の局面を変えるような活躍をみせても、メディアが喜ぶようなコメントは発しない。あくまでもチームファーストの姿勢を貫いた。当然、大衆人気もパッとしなかったが、組織を構成するうえでは黒子に徹するタイプも絶対に必要だ。

 P・ネビル同様、バットも物静かな男だ。

 家族を思いやり、友人へのサポートも惜しまない彼は、チームでいちばん愛されていた。悪戯好きのスコールズが何か仕掛けてきても、楽しそうにしている。G・ネビルと違って好戦的でもない。ひょっとすると毎朝、笑顔で目覚めていたのではないだろうか。

 したがって彼もまた、メディアのヘッドラインを飾るタイプではなかった。ただし、2002年ワールドカップでは、「豊富な運動量と的確な状況判断で攻守をリンクしている。世界でも指折りの中盤センターだ」とペレが絶賛している。

 当時イングランド代表監督を務めていたスベン・ゴラン・エリクソンも、必ずといっていいほどバットを招集。シーズン中に調子が落ちていても、だ。信頼の証に他ならない。

イニエスタも憧れたスコールズ。

 スコールズはメディアが大嫌いだ。

 極度の人見知り。見知らぬ者に取り囲まれて質疑応答? 絶対に嫌だと逃げまわる。筆者も専門誌の編集長時代に何回かインタビューを申し込んだが、ユナイテッドの回答はいつも同じだった。

「スコールズはメディアの取材に応じない」

 しかし、ピッチに入ると人が変わる。シャイな男が肉食に変貌する。相手DFラインを前後左右に揺さぶるロングフィード。鋭いクサビ。パス・アンド・ムーブ。そして20〜30mの強烈ミドル。まさに“小さな巨人”だった。

 個人タイトルと縁遠かったからか、それともプレミアリーグが不当に低く評価されていた時代にピークを迎えたからか、日本における知名度はそれほど高くない。ただ、バルセロナで一世を風靡したシャビ・エルナンデス、アンドレス・イニエスタが憧れた事実からも、スコールズの凄さはうかがい知れるだろう。

 マンチェスター・シティのジョゼップ・グアルディオラ監督も、「史上最もすぐれたミッドフィルダーのひとり」と絶賛している。

日々鍛錬し、伝説となったギグス。

 ギグスは飛び切りずば抜けたウイングだった。超絶技巧の持ち主ではなかったものの、間合いの測り方が絶妙で、緩急のリズムを駆使しながらマーカーをあっさりかわす。足下にボールが吸い付いたドリブルは流麗、かつスピードにあふれ、この男を止める手段はイエローカード覚悟のファウルしかなかった。

 それでもギグスは倒れない。最後の手段に及ぶマーカーを無力にする柔軟で強靭な足腰を、日常のトレーニングで装備していたのである。晩年はヨガを採り入れ、コンディショニングに余念がなかった。

 彼もまた、メディアに追われることを嫌がった。雛鳥のなかでは最も早い'91年3月、17歳でデビュー。あっという間に“ジョージ・ベスト二世”のニックネームを頂戴して注目の的になる。

 しかし内向的な性格で、試合後はメディアを避けていた。インタビューに時間を割かれることを嫌い、クールダウンを優先。70kgにも満たない体重で、大過なく現役をまっとうできたのは、自分の肉体と日々会話していたからだ。

ベッカムの美貌に隠された努力。

 5人のライバルとともに、ベッカムも日々の訓練によって世界一の精度をその右足にまとった。

 プレミアリーグが練習をある程度公開していた当時、筆者は強烈なシーンを目撃したことがある。逆サイドに等間隔で並べられた7〜8本(だったと記憶している)のコーンに、ベッカムのキックが次々に命中していく。70mに及ぶロングパスを連続で決めるなんて、信じられない光景だった。しかも居残り練習で……。

 人を見た目で判断してはいけない。ベッカムはみずからの努力で確固たる地位を築いた。

 その美貌ばかりが注目されたが、華麗なピンポイントクロスがユナイテッドに数多くのタイトルをもたらしたことは事実である。1998-99シーズンのトレブルも、彼の右足が何度も生んだ貴重なゴールが引き金となっている。

 あのとき、なぜバロンドールを獲れなかったのか。投票権を持つ者がパフォーマンスだけを正当に評価していれば、ヨーロッパ最優秀選手はベッカムのものだったはずだ。

現マンUに関わるのはバットだけ。

 現在、ベッカムはユナイテッドに一切タッチしていない。ギグスはウェールズ代表を率い、P・ネビルはイングランド女子代表監督だ。そしてスコールズとG・ネビルはメディアの仕事に従事している。

 唯一バットだけが、アカデミー部門の責任者としてユナイテッドに残っている。

 せっかくの人材が有効活用できていない。彼ら6人の経験を役立てるプランはないものだろうか。

 バイエルン・ミュンヘンでは、カールハインツ・ルンメニゲが社長としてらつ腕をふるっている。近い将来、バルセロナではシャビが監督に就任し、イニエスタもコーチングスタッフに加わる公算が大きい。

 ユナイテッドのオーレ・グンナー・スールシャール監督は、ベッカム世代のような影響力はない。“ファギーズ・フレッジリングス”がトップチームの監督やコーチ、あるいは下部組織のスタッフやスカウトとして参画できないものだろうか。

 同世代に6人もの名手が産まれた奇跡を重んじず、彼らの大半がユナイテッドと距離を置く現状は悲しすぎる。

 名門の歴史は、名門を知る者によって受け継がれていく……。

文=粕谷秀樹

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