無観客という異例の事態のなか行われる「宝塚記念」。Number Webでは「こんなときこそ読んで欲しい」と思う『Sports Graphic Number』の過去の記事、「1分56秒──理想のサラブレッド、サイレンススズカ」(689号、2007年10月25日)を前後編に分けて特別に公開します。サイレンススズカの急逝から9年後、主戦の武豊騎手をはじめ、生産者や担当厩務員などに悲運の名馬についてあらためて聞きました(後編「武豊に聞く。ディープインパクトはサイレンススズカを差せるのか。」は記事最終ページ下の「関連記事」からご覧になれます。)

 1998年11月1日、天皇賞。2番手に10馬身もの差をつけて、快調に先頭を駆けている美しい栗毛の馬の勝利を、誰もが確信していた。

 普通の馬なら明らかにハイペースだが、この馬にとってはマイペース。あとは何馬身離して、どれほどのタイムでゴールするかに興味は移っていた。

 しかし、3コーナー過ぎ、突然、鞍上の武豊が手綱を引いて馬を止めた。

 大差をつけられていたその他の出走馬たちが脇を次々に通り過ぎていくなか、その馬は骨折した左足をわずかに上げて、おとなしく立っていた。その姿から目を離すことが出来なかった私に、このレースのゴール前の記憶はない。

 満員の府中のスタンドは、どよめきと悲鳴が交錯していた――。

武豊は特別な表現で「別格」を強調した。

 サイレンススズカの死から、早くも9年が経った。実績を見ると、GIはわずかに1勝。しかし、大逃げを打ってそのまま逃げ切るというスタイルが、いまだに強く記憶に残っているファンも多いだろう。

 鞍上にいた武にとっても同様だと思う。

 過去にサイレンススズカについて「もっとも勝ちやすい馬」と極めて高い評価をしたことがある。その後もディープインパクトという史上最強馬をはじめ、数々の名馬の手綱を取ってきた武にとって、今、サイレンススズカとはどのような存在なのだろうか。

 あらためて訊いてみると、これ以上ない簡潔な表現で答えが返ってきた。

「理想のサラブレッドです」

 様々なタイプの名馬の乗り味を体感してきたスーパージョッキーが、特別な表現で「別格」を強調した。心底からこの馬に惚れ込んでいたことは、「最初から最後まで、どの馬より速く走ることができる稀有な才能の持ち主でした」と話るときの瞳の輝きが雄弁に伝えていた。

 武はサイレンススズカに、どのような「理想」を見ていたのだろうか。

サイレンススズカは「偶然」から誕生した。

 サイレンススズカは「偶然」から誕生した。

 父は、日本の競馬の進化の針を、たった1頭で数十年分も一気に進めたと言われる、不世出の名種牡馬サンデーサイレンス。

 サイレンススズカは、サンデーサイレンスの3シーズン目の産駒だ。ノーザンテーストの時代('82年〜'92年までリーデイングサイヤー)がゆるやかに終焉を迎えつつあった'94年5月1日に、この世に生を授かった。

 サンデーサイレンスの初年度産駒はこの年にようやくデビューを迎えており、1年前の種付けの時点では、次の時代を引き継ぐ('95年から現在に至るまで、リーディングサイヤー継続中)偉大な種牡馬になるとは、まだ誰も予想できていなかった。

稲原牧場が冒険的な大枚をはたいて輸入した。

 母ワキアは、当時米国で最も人気が高かったミスワキの子。これを北海道・平取町の、決して大規模とはいえない稲原牧場が、冒険的な大枚をはたいて輸入した。

 後のサンデーサイレンス産駒の隆盛を知っていれば、素直に配合すればいいのにと思うわけだが、当時は事情が違う。サイレンススズカが生まれる1年前、ワキアの種付けの相手として選ばれた種牡馬は別の馬だった。

 米国からやってきたサンデーサイレンスが日本で種付けを始めたのは'91年。この年にはヨーロッパからバイアモンという種牡馬も導入されていた。

 競走成績こそ良かったものの、特に母系の血統が貧弱と見られていたサンデーサイレンスに比べて、こちらは、クランツクを狙える重厚な血統背景が売り物だった。現在の稲原牧場を切り盛りしている稲原昌幸はこう回想する。

「当時のバイアモンは、まさに鳴り物入りだったんですよ。うちはシンジケート株をいち早く購入していたので、特にそう感じていたのかもしれませんが(笑)。ですから、一番期待している繁殖牝馬にバイアモンを配合するのは当然過ぎる選択でした」

 ところが、バイアモンの種付けは非常にスムーズに行なわれたものの、2回続けて不受胎。熟考の末に代役に浮上したのは、この当時うなぎのぼりに評価が上がっていたトニービン(結果的に'94年のみリーディングサイヤー)だった。しかし、こちらはあまりにも人気が沸騰して、ワキアが発情を迎えた当日には空きができなかった。

生まれたときは「小さくて、華奢で、可愛くて」。

 そこでようやくサンデーサイレンスをつけることになった。つまり、サンデーサイレンスは代打の代打だったのだ。

「とにもかくにも、1回で無事に受胎となったことでホッとしたことだけは鮮明に覚えています」(稲原)

 生まれたときは「小さくて、華奢で、可愛くて」と、稲原は振り返る。ペットなら「可愛い」は最高の褒め言葉だが、競走馬の場合はそうではない。不安いっぱいの第一印象だったことが伝わってくる。毛色も、父とも母とも違う、明るい栗毛だった。

 サンデーサイレンスが種牡馬としての名声を高めていくなかで、走る馬といえば、「黒い馬」というのが通り相場になった。

 サンデーサイレンスの被毛は、黒鹿毛よりもさらに黒い、眩しい日差しに青光りする「青鹿毛」。サンデーサイレンスは自身が持つ特徴的な毛色さえも、産駒に伝えようとした。

 それゆえサイレンススズカはサンデーサイレンスの2年目の産駒から、イシノサンデーという栗毛の皐月賞馬が出るまでは「この子は大丈夫だろうか」という目で見られ続けていた。

頼れる存在がないと不安でしょうがないという馬。

 そんなサイレンススズカは、何かに頼りたい、頼れる存在がないと不安でしょうがない、そういう馬だった。

 最初の試練は、「乳離れ」だった。概ね生後6カ月をメドとして行なわれる、サラブレッドの成長の過程において、避けては通れないこの儀式。

 放牧地から、いつもなら母子連れ立ってウマヤに帰ってくるところを、その日は母ワキアだけをなにげなく連れ帰り、姿が見えなくなったのを見計らつて少し離れた別の厩舎にサイレンススズカを分離した。

 どんな母子でも、寂しがって三日三晩泣き続けるというが、それが済むとウソのように自立する。そのあとは、たとえ放牧地ですれ違ったとしてももう他人同士。

 ベテランの母馬ともなると、その時期が近づくとまるでそれを予期しているかのように、放牧地でも子供との距離を置くようになり、非常にスムーズに運ぶケースも少なくない。

ウマヤの中を勢いよく回ることを覚えてしまった。

 ところがサイレンススズカはこれが大いにショックだった。

 同じ時期に乳離れした仲間がとっくに自立してしまっても、なかなか母との楽しい毎日を吹っ切ることができなかったようで、憂さ晴らしなのか、ウマヤの中を勢いよく回ることを覚えてしまった。

 競走馬としての値打ちにも大きく影響する「旋回癖」という悪癖である。

 なぜこれが問題かというと、まず、狭いウマヤの中を際限なく回ることでケガのリスクが格段に大きくなる。そのうえ、ほとんどの馬がいつも同じ方向に回るため、蹄の減り方に偏りが出てしまうのだ。サイレンススズカは左回り専門だった。

 稲原牧場では、この癖を止めさせようと、最初に旋回できないように古タイヤを吊ってみた。

 しかし、サイレンススズカはこれを上手に潜り抜けるため、すぐに無効だと分かった。次にウマヤの壁面にピカピカのステンレスを張って、自分が興奮して走り回る姿を見せて治そうとしたものの、これも効果は3日ほどしかなかった。

能力はずば抜けていて、すぐに栗東で噂に。

 この悪癖を抱えたまま、サイレンススズカは2歳の冬に栗東の橋田満厩舎に入厩した。

 能力はずば抜けていて、未出走の調教段階ですでに栗東で噂になっていたが、旋回癖は入厩後もついに矯正はできなかった。ウマヤに畳を吊るなど、ありとあらゆる方法を試してみたものの効果はなく、ついに根負けした橋田調教師が、「好きに回らせるしかない」と、ウマヤの中に障害物を1つも置かなくなってからのほうが、むしろ落ち着いている時間が多くなったという。

 後にサイレンススズカが実績を残すようになると、用囲は「だから左回りが得意なのか」とか、「この自主トレが効いているんやね」とか、無責任なことを言っていたが、担当厩務員の加茂力は「毎日が本当に大変だった」と当時を振り返る。

 蹄鉄は普通では考えられないぐらいの速さで減り、削蹄にも常に細かく気を造ってやらないと致命傷に発展しかねない危うさがあったという。

 ただ、加茂がウマヤで仕事をしている間は旋回癖もそうひどくはなかった。

 そのため加茂はできるだけ一緒にいようとし、毎日の帰宅時間は遅くなっていった。いつしかサイレンススズカは加茂に母性のようなものを感じていたのかもしれない。この加茂への「思い」が、誰にも想像できないような災いを招いてしまった。

前扉の下を潜りに行ってしまった。

 デビュー戦で楽勝し、まだ2戦日にもかかわらず2番人気に支持された皐月賞トライアル・弥生賞でのこと。

 14頭立ての8番ゲートにすんなりと収まったまではよかったのだが、ゲートの中まで付き添っていた加茂が「出ろー!」の合図で前扉の下をくぐって退避すると、なんとサイレンススズカは加茂のあとを追うように、真似をして前扉の下を潜りに行ってしまったのだ。

 他の馬とは比べものにならない体の柔らかさがあったからこそできた芸当で、普通の馬はやろうとしてもこんなことはできない。

 騎乗していた騎手の上村洋行でさえも「馬がなにをしようとしているのかもわからず、一瞬見入ってしまった」そうで、気付いたときには、ゲートの扉と馬の間に挟まれてしまっていた。

 仕切り直しで外枠発走になると、今度は致命的な出遅れ。1コーナーを回る時点で、すでに圏外の位置に追いやられていた。

 それでも、4コーナーでは「差しきれるか」と思える位置まで取りついていた。結果はさすがに息切れして8着だったが、あまりに大きな出遅れを考えれば能力の非凡さを証明していた。

 しかし当事者である厩舎サイドは、期待をかけている素質馬に対して、悩みばかりが深まり、焦りを感じていた時期だった。

(Number689号「1分56秒──理想のサラブレッド、サイレンススズカ」より)

後編「武豊に聞く。ディープインパクトはサイレンススズカを差せるのか。」は下の「関連記事」からご覧になれます。

文=片山良三

photograph by Tomohiko Hayashi