「ねぇねぇお父さん〜 一緒に帰ろうよ〜」

 カシマサッカースタジアムのすぐ外で女の子がファン・ソンホン(黄善洪/当時柏レイソル所属。現Kリーグ2部大田ハナシチズン監督)に話しかけていた。2001年5月19日のJリーグファーストステージ第10節、鹿島アントラーズvs.柏レイソル戦後のことだ。

 完璧な日本語だった。彼の次女が無邪気に甘えていたのだった。

 ああ、韓国の名ストライカーも日本が長くなったんだな、と思った。4年目を迎えようとしていたのだ。

 すると2−3で敗戦後のお父さんは、娘に一言めちゃくちゃクールに返した。韓国語で。

「パパはバスで帰らないと」 

Jリーグで活躍する韓国人選手は34人。

 自国では1990年から後の'02年まで4度のW杯代表に選出された。'94年アメリカ大会ではチャンスを逸し続け猛批判を浴び、'98年フランス大会では負傷で1分もピッチに立てず。挫折を経て'02年W杯初戦のポーランド戦での先制ゴールで思いを成就させた。18年前のちょうど今頃のことだ。

 その間、彼のキャリアには確かにJリーグが色濃く存在した。'99年に歴代コリアンJリーガーで唯一得点王のタイトルを獲得している。

 しかし、ここで再びスポットライトを当てたいのは「明」の部分ではなく、「暗」だ。これがJリーグ27年の歴史の中で、ある重要な点を示唆している。そんな思いがずっとあった。

 筆者自身のコリアンJリーガー取材歴でもじつにインパクトのある証言をした人物だ。ピッチでの姿もそうだったが、外でもそうだった。勝負に行くときは徹底して行く。取材の時に、ちょっとだけぶっ飛ぶような思いをしたこともある。これぞ大物、という感じだった。

 この週末からJリーグが再開する。それぞれのホームタウンで、韓国人プレーヤーたちもまた、その街の勝利のために尽くす日々が始まるのだ。その数、34人はブラジル人の86人に次ぐ人数だそうだ(今年1月末現在)。

 この時に“偉大な先輩”の言葉を。

Jリーグは「傷を癒やしてくれた場所」。

'98年シーズン途中にセレッソ大阪に加わったファン・ソンホンにとってのJリーグはまず、「新たなチャレンジ」としての位置づけだった。'18年にJリーグ25周年を記念して話を聞いた際、こんなことを言っていた。

「Jリーグとは、本当にありがたい場所です。'98年W杯を負傷で棒に振った私の非常に難しい時期を持ちこたえさせてくれたからです。傷を癒やしてくれた場所。

 仮にその時期にJリーグが存在しなければ、私はいまこの場でインタビューは受けていないでしょう。あるいは今のファン・ソンホンすら存在しないと思っています。その時期に傷を癒やしてくれたからこそ、30代になっての'02年W杯出場にも繋がった。私にとっては本当にいい思い出が残っている場所。それがJリーグです」

'97年W杯予選時に右膝を負傷。これが回復した頃、親善試合の中国戦で左足を負傷した。結果、フランスまで行ったもののピッチに立てず。同時代に「黄金コンビ」と呼ばれたチェ・ヨンスとのコンビもほとんど実現しなかった。

 その後、新たなスタートを切る場が必要だった。「欧州だったらいいな、と思っていたがJリーグも十分に魅力的な場だった」という。

 しかし実際には、いいことばかりではなかった。名手は、じつはJリーグとは悲惨な別れを経験している。この記憶こそが、むしろこの韓国の名ストライカーにとってのJリーグの記憶を色濃くしているのではないか。

「Jリーグでは力を抜いている」

'00年から'02年に在籍した柏レイソルでは、サポーターからかなり厳しい目で見られていた。

「代表では本気を出すのに、Jリーグでは力を抜いている」

 実際に負傷を理由にリーグ戦の試合を休んだが、直後の代表の練習には参加したという出来事もあった。当時の取材メモを読み返すと「代表招集の時期が近づくと、明らかにフィジカルコンタクトを避けていた」という走り書きがあった。

'99年、'00年に上昇気流にあった柏の成績も下り坂だった。'01年はファーストステージ6位、セカンドステージ7位。西野朗監督も途中解任されてしまった。'02年はW杯をはさんだファーストステージで14位に終わっている。

 このことについて、本人の引退後の'03年に『Sports Graphic Number』の取材で話を聞いたことがあるが、まさに「行くときは行く」。難しい質問に対しても、なんでもはっきりと喋った。

ひと夏の宴が終わった後の「解雇」通告。

――W杯代表入りに気持ちばかり入って、Jリーグでは力を抜いていた。そういった噂もありましたが。

「確かに気持ちは落ちていました。そうするしかなかったし、そうすべきだったと思っています。韓国国旗を胸にプレーするのに、50%の気持ちでやるのか。殴られます。80%、90%でもダメです。レイソルはその被害を受けてしまいました。2年間で21試合欠場したうえに、代表から戻っても、体調が悪ければいいプレーは出来ない」

 はっきりと「代表優先だった」。そこまで言い切ることに、かなり驚いた。「Jリーグ公式戦に全力ではなかった」とは重大な発言だった。さらに話は続いた。

「だから、せめて大会を終えたらレイソルに100%集中する。そう決心したのです」

 現に'02年5月29日、さあこれからW杯というところで「今大会を最後に代表を引退する」と宣言していた。レイソルに迷惑をかけ続けていたことを承知していたからこその、決断だった。

 しかし、ひと夏の宴が終わった後、ファン・ソンホンを待っていたのは、ある宣告だった。

「解雇」

 W杯後、ファーストステージが8試合残っていたが、チームは全敗。W杯時からの負傷を引きずっていたファンは2試合、84分しかピッチを踏めなかった。レイソルとしては、振り向いてほしい時には振り向いてくれず、あちらが気持ちを入れようとした時にはもう遅かったのだ。

Jリーグで燃え尽きることを望んだが……。

 その後の道のりも過酷だった。アメリカMLSのクラブと契約寸前まで行ったが、メディカルチェックを通過できず。'02年の10月にKリーグの全南ドラゴンズと契約を結んだが、W杯時からのアキレス腱、膝、左太ももの負傷のため1試合も出場できなかった。

 年末からリハビリに入るつもりだったが、この時、3つの負傷のうち最も軽症と想像していた太ももの炎症が「全治3カ月」と診断され、気持ちが切れた。翌年2月に引退を発表した。韓国の'02年W杯代表選手のなかで、最も早い引退だった。

 Jリーグで燃え尽きることを望んだが、それが叶わなかったのだ。

「俺の携帯番号、知ってるかな? 何でも聞いてきて」

「代表招集の度に日韓を往来することにもう限界を感じていて。だから大会後はなんとかしてレイソルに貢献したかったんですが……」

'03年のこのインタビューでは、Jリーグ時代末期での思いを批判覚悟で躊躇なく口にしてくれた。この取材では「行く」と決めていたのだろう。訥々と話す姿にはピッチ上でのそれと似た気迫があった。

 しかし終わった直後には穏やかな表情に戻った。そして聞かれた。「俺の携帯番号、知ってるかな? 何でも聞いてきて」。

 とにかくギャップがすごくて、「あああああ、はい」と、逆に返事に焦ってしまった記憶がある。

「日韓サッカーの違いについて聞きたい」は拒否。

 引退後、全南のコーチなどを経て'07年に釜山アイパークの監督に就任。その後'11年からは浦項スティーラーズに移り、'12年にカップ戦優勝、'13年にリーグ優勝。しっかりと実績を残した。

 監督となってからはこちらには「閉じた」時間が訪れた。

'12年のキャンプの時期に「日韓サッカーの違いについて聞きたい」とインタビューを申し込んだが、断られた。理由は「シーズンの話以外はしたくない」。

'17年、FCソウルの監督となった彼と顔を合わせる機会が短期間で3度もあった。

 2月12日にプレシーズンマッチ「さいたまシティカップ」で監督を務めたFCソウルが浦和レッズと対戦。

 この日程は早々に決まっていたのだが、なんとその後のアジアチャンピオンズリーグのグループステージ組分けで両チームが同組となったのだ。2月28日に浦和のホーム、5月10日にソウルでの対戦があった。

 最初のプレシーズンマッチでの対戦時から、ファンは現場で会ってもさっぱりこちらに目線も合わせようとしなかった。もう戦闘モードに入っていたのだ。こちらも意地悪く、ホームの会見場では目立つ席に座って、逆にずーっと目を見るというセコい「仕返し」をしたが。

「得点王になったということを非常に光栄に思う」

 ところがファンはこの翌年の4月に成績不振のため監督を辞任してしまった。

 ちょうどその折、Jリーグ25周年記念のインタビュー企画が舞い込んだ。

 取材のオファーは韓国の国民的チャットアプリ「カカオトーク」で行った。返事が非常に迅速で、丁寧。しかも返事が遅れた際には「ごめんなさい」と入る。

 しかも取材当日、到着が少し遅れそうになると「駐車場が見つかりませんでした。おまたせしそうです」とまたメッセージが入る――かなりの紳士ぶりだった。

 依頼主から与えられた質問内容以外に、自分で聞きたかったことを2つ織り交ぜた。

――いまや、韓国のトップ選手は欧州に行く時代になりました。そういったなかでファンさんは「Jリーグ得点王」のキャリアを引退後も周囲に積極的に話すものなのですか? それともあまり言わないものですか?

 暗に「もう少し時代が遅ければ、欧州に行けたのではないか」「Jリーグではいいことも、悪いこともありましたよね」というニュアンスを入れた。

 え、何言ってるの? という表情を見せた。

「話しますよ! 私は海外のリーグで得点王になったということを非常に光栄に思うし、誇りにも思っています。特にFWはゴールに関して言えば、たとえ10回得点王になったとしても、すべてが大切なものです。私は本当に自負を持っています。韓国選手がこれまで成し遂げていないことですし、誰でも出来ることではないと思っています」

「残念だし、クラブとサポーターに申し訳なかった」

 さらに意地悪く質問を続けてみた。

――こういったものには、ご本人の認識があり、周囲の反応がある。後者はどうでしょう? 

「今は時間も経ち、周囲での私の選手時代の記憶も薄れていっていますが、当時のことを振り返る機会があればとても高く評価してくれますよ。なにせ、韓国選手が海外リーグで得点王になった唯一の例でもありますから。どんなリーグでも。そういう部分に関しては高く評価してくれますよ」

 何言ってんだ? Jリーグ得点王、最高だろ? と。

 柏時代の出来事は、いまでも「残念だし、クラブとサポーターに申し訳なかった」と言っていたが。

 ファン・ソンホンにとってのJリーグは、栄光もエゴも丸出しでぶつかったからこそ尊いのではないか。まずは応援している人がいて、サラリーを払うクラブがあるのに「全力ではなかった」などというのは絶対に許されるものではない。自身のまたもうひとつの勲章「W杯でゴール」を決め、そして最後は自分がクラブにフラれ、罰も受けた。間違いを認め、詫びた。

リーグと代表の兼ね合いをどう捉えるべきか?

 ある国のトップレベルのストライカーとの濃いかかわりもまた、Jリーグの財産だ。

 そして27年のリーグの歴史のなかで、彼の軌跡は「得点王」という華やかさのみならず、また別の問題を投げかけている。

 リーグとW杯の兼ね合いをどう捉えるべきか。クラブ間の移籍については選手個人の意思を尊重する流れが常識化しつつあるが、これをどうするのか。ファン・ソンホンの行動は、クラブにとってはエゴだが、他のはるかに多くの人たちにとっては(母国を代表して戦ったのだから)大きな公共性を満たす行為になったことも確かだ。大局的な見地からこれを受け入れるべきなのか、抗議すべきか、あるいはプロとしての彼個人は「解雇」でその罰を十分に受けたのか。

 ちなみに鬼籍に入った当時の柏GM久米一正さんは「W杯前に韓国代表候補を獲得するものではない」と懲りていたが。「日本人選手にない熱い気持ちに期待して呼んだが、いざW杯となると赤いユニフォームに気持ちを奪われる」と。

歳を重ねて再び会えると嬉しいもので……。

 ファン・ソンホンのように得点王を獲得するようなコリアンJリーガーは今後出てくるだろうか? 

 コロナ禍でのJリーグ中断期間、パク・チソン、チェ・ヨンス、ホン・ミョンボ、そしてファン・ソンホンとの関わりを超個人的視点で振り返ってきた。

 筆者自身、時には打ち負かされ、助けられてきた。いずれにせよ「超大物感」との遭遇は興味深いものだ。日本と韓国、少々無茶をやるからこそ、歳を重ねて再び会えると嬉しい――そうも思える。

 今後は現役コリアンJリーガーの話を聞いていきたい。時代は変わり、日本は「若い世代が勝負する場」となっている。彼らがどんな思いで戦っているのか。聞き出していく。

文=吉崎エイジーニョ

photograph by YUTAKA/AFLO SPORT