アントニオ猪木を追いかけ続けて50有余年! 伝説のプロレスラーを長年撮影してきた伝説のカメラマン原悦生が、今だから明かせる秘話を綴ってくれました。今回は「IWGP構想」の原点から現在のIWGP王座に至るまでの話。IWGP編は全3回。最終回は、「IWGP構想の未来はどこにある?」です。

 構想から40年という長い歴史の中で、「IWGPは呪われている」と言われていたことがある。

 1983年6月2日のアントニオ猪木の衝撃的KO負けから、因果関係は別として、新日本プロレスや猪木の周辺ではよくないことが続いていた。

 IWGP創設に関係し、あのエルビス・プレスリーとも友人だったカナダの大物プロモーターであるフランク・タニーは日本からの帰りに立ち寄った香港で急死している。

 同年8月にはタイガーマスク(佐山サトル)が突然、新日本プロレスを去った。さらに同月、猪木は社内クーデターによって社長を解任。その責任を一緒に取らされた形で、IWGPの実行委員長だった新間寿は新日本を追われた。

 翌年には新日本といい関係にあったWWF(現WWE)のビンス・マクマホン(シニア)代表が死去。メキシコUWAのフランシス・フローレス代表もこの世を去った。

 そんな中、第2回IWGPは1984年も開催されたが、その優勝戦は荒れに荒れた。6月14日に前年優勝者のハルク・ホーガンはリーグ戦を勝ち上がった猪木と蔵前国技館で対戦した。

猪木を倒した後、ホーガンはWWF世界ヘビー級王者に。

「今年こそ猪木が勝ってくれるだろう」というファンの強い思いがあった。

 だが、前年に猪木を倒した後、さらに力をつけたホーガンは、'84年1月にはWWF世界ヘビー級王者になっていた。

 WWFはNWAを脱退して、ベルトに「世界」の肩書を復活させた。ホーガンの戴冠はNWAのお膝元と言われたセントルイスのキール・オーデトリアムで敢行されたWWF世界戦でのものだった。WWFにしてみれば当然、NWAを意識しての殴り込みだった。

 もう、時代はNWAのものではなく、WWFや他の時代に移行しようとしていた。WWFは息子のビンス・マクマホン・ジュニアが引き継いで、全米制覇に本腰を入れ始めていた。その目玉がホーガンであった。

 IWGPは違った形でアメリカのプロモーターたちを刺激したようだ。

翌年、ホーガンとの決着をつけるべく……。

 6月14日の蔵前国技館に話を戻そう。超満員の観客に加えて、国技館の外の敷地では入れないファンのために映像が流されていた。

 猪木がバックドロップを放てば、ホーガンも猪木を高々と持ち上げた。ホーガンがフレッド・ブラッシーのような切れのいいネックブリーカーを見せれば、立ち上がり際、猪木は延髄斬りを決めた。だが、ロープ際で放った2発目の延髄斬りは空を切ってしまった。

 場外でのブレーンバスターが猪木を襲った。ホーガンが先に上がったが、裁定は両者リングアウトだった。

 ホーガンはこのジャッジに納得せず、しかも試合続行を嫌ったが、試合は無理やり延長戦に突入することにされる。

不可解に次ぐ不可解……決着はうやむやに。

 猪木が足4の字固めに入った所で、ホーガンは強引にロープを超えてエプロンに出てしまう。締め上げる猪木とギブアップしないホーガン。ここでまたしても両者カウントアウトになってしまう。

 再延長戦。

 ロープを背負った猪木にショートレンジのアックスボンバー。猪木は大の字。また、猪木の舌が出ている。猪木はまだ動けたし、意識もあるのになぜ……ホーガンのアックスボンバーと猪木の舌にはどんな関係があるのだろう。

 さらにホーガンはスピードをつけてアックスボンバー。猪木は本能的に右足をロープに伸ばしてフォールから免れた。

 ホーガンは猪木を担ぎ上げるが、もつれるように場外へ落ちた。

 場外でもホーガンのアックスボンバーを浴びた猪木は後頭部を鉄柱とロープをつなぐ金具に打ち付けてしまう。前年の悪夢の再現フィルムのような過程だった。エプロンに上がって来る猪木をアックスボンバーが待ち受けた。さっきまでカウントを取っていたレフェリーが邪魔になったことが幸いして、猪木はかがんでアックスボンバーをかわし、2人とも場外に落ちていった。

 ホーガンが猪木を鉄柱にぶつけようとすると……そこにいた長州力が猪木にラリアットをぶち込んだ。さらに、長州はホーガンにもラリアットをぶち込んだ。ホーガンも腕を出して相打ちのようにはなったが、ホーガンにダメージがあった。

 長州の暴挙だった。

 この暴挙から、会場はとんでもない暴動へと発展する。

みんな、ちゃんとした決着が見たかったのだ。

 物が無数にリングに投げ込まれて、怒号が国技館に充満した。大きかった猪木コールが、そのまま全部大きな不満となって爆発していた。

 みんな、ちゃんとした決着が見たかったのだ。

 1年も待たされたのだから。

 第2回IWGPの優勝者は猪木になったが、不透明決着に収まらないのが、満員の観客だった。

 帰らないファンは、さらに無人のリングに物を投げ込み続けた。中には新聞紙に火をつけて猛抗議する者までいた。国技館の時計を取り外して、さらにはマス席のパイプまで破壊していた。

IWGPリーグ&トーナメントは5年続いた。

 IWGPは1985年の第3回大会優勝戦では、猪木が東京でアンドレ・ザ・ジャイアントにリングアウト勝ちして2連覇した。さらに名古屋ではWWF世界王者ホーガンを相手にベルトを賭けてIWGPヘビー級選手権として防衛戦を行い、リングアウト勝ちしたが、これは決着と呼べるものではなかった。猪木とホーガンのシングル戦はこれが最後になった。

 IWGPはリーグ戦あるいはトーナメントとして1987年まで5年続き、猪木が4連覇したが、WWFとの提携は1985年を最後に終わって参加レスラーの豪華さは失われていった。

 シリーズとしてのIWGPの役目が終わったということで、IWGPは正式にIWGPヘビー級選手権としてタイトル化されて、猪木が初代王者になった。

 全米マットではNWA至上主義は後退して行く。WWFは1985年から「レッスルマニア」をスタートしケーブルテレビで増収を得て、全米マーケット制圧に乗り出した。1988年にはテレビ王テッド・ターナーがNWAのブランドと共にWCWに買収したことで、'90年代はWWFとWCWが全米を二分する勢力図に書き換えられた。リック・フレアーが王者のまま、WWFに移ったり、逆にホーガンがWCWに移籍し、WCW世界王者として戦った。一時はWCWの勢いがWWFを上回ったこともある。

 だが、永遠の栄華などない。WWFの侵攻は続き、WCWはターナーがプロレスから手を引くことで消滅に向かう。

新日の至宝にして世界にも通用するIWGP。

 21世紀に入ると全米はWWFの時代になった。

 WWFは2002年にその名称をWWEに変更して、WCWからNWA時代を含むすべての映像の権利も買い取って全米のプロレス・エンターテインメントを完全制圧した。

 一方でタイトル化されたIWGPヘビー級王座は新日本という日本のリングで生き延びていた。

 猪木の後、藤波辰爾、ビッグバン・ベイダー、ソ連のサルマン・ハシミコフと続いた。長州力、武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋らもベルトを巻いた。IWGPはドーム興行を含めてビッグマッチに欠かせない必須のアイテムだった。IWGPは天龍源一郎や、ブロック・レスナーも歴代王者に名を連ねている。

MSGでのIWGP王座戦に再び“呪い”が!?

「暗黒の時代」と呼ばれる低迷期には、猪木色を取り払おうとした新日本だったが、幾多の伝説を残したIWGPというブランドとは運命共同体というスタンスを取った。ベルトは棚橋弘至、中邑真輔、オカダ・カズチカらに受け継がれた。

 オカダは2019年4月、マジソン・スクエアガーデン(MSG)でIWGPヘビー級選手権に挑戦して王座を取り返した。形は異なるが「MSGでの決勝」というIWGP構想から実に39年が経過していた。当時を知るものにとっては、ようやくここまでたどり着いたという思いだ。

 現在の第70代IWGP王者は内藤哲也だ。1980年のIWGP構想から40年が過ぎた今年は、内藤が順調に行けば8月にMSGでIWGPの王座防衛戦を行うプランだった。

 だが、新型コロナウィルスのパンデミックで8月のニューヨークMSG大会は延期を余儀なくされた。そればかりか日本でも試合は行われず、内藤は2月9日に大阪で初防衛戦を行っただけであった。

 それでも、やっと6月15日から無観客試合が始まって、ついに内藤の2度目の防衛戦が決まった。内藤はジャパンカップの優勝者と7月12日、大阪城ホールで、定員の3分の1である3500人の観客という特異な環境の中で戦う。

 かつて「呪われたIWGP」と呼ばれたベルトは予期せぬコロナウィルスの猛威に巻き込まれたまま、コロナとともに次の新しい歴史を刻むことになった。

文=原悦生

photograph by Essei Hara