2010年6月29日。サッカーW杯南アフリカ大会での日本の挑戦は、駒野友一のPK失敗で幕を閉じました。それから4年後の2014年、チームメイトとして再会を果たした駒野と戦友・松井大輔は当時の戦いをどう振り返っていたのか。激闘から今日でちょうど10年、そんな2人の思いを描いたコラムを特別に公開します(Sports Graphic Number 2014年7月9日臨時増刊号「駒野友一&松井大輔『フットボーラーの幸せ』」より)。

「アイツのせいで負けたんですよ」

 クラブハウスと練習場をつなぐ階段を下りてきた駒野友一を見て、サービス精神旺盛な松井大輔が笑いながら言った。サンダルをペタペタと鳴らしながら歩いてくる駒野は、ニヤリと微笑むだけで特に何も言わない。

 ともに1981年生まれの2人は、小学生の頃からお互いの存在を知っている。初めて言葉を交わしたのは、駒野が「和歌山のスピードスター」として、松井が「京都のテクニシャン」として関西選抜に名を連ねた中学2年の時。あれから19年、今季からまた同じユニフォームを着る2人は、歩んできた道のりも、性格も、考え方も遊び方も違う。だから友人としての「密度」が濃いわけではないが、同じ時代に日の丸を背負い、同じ目標を持って戦ってきた仲間としての絆は深い。カメラの前に並んで立つ2人の無防備でのん気な雰囲気からも、それは十分に伝わってくる。

4年前と「逆にする?」

 さて、どちらが右で、どちらが左か。

 一瞬だけ迷って4年前の写真と同じ立ち位置で背筋を伸ばすと、松井がまた、いたずらな表情を浮かべて言った。

「逆にする?」

 4年前の南アフリカで撮られた写真には、やはり同学年の阿部勇樹とともに涙を浮かべる2人の姿がある。呆然とうつむく駒野の隣に、寄り添ってその肩を抱く松井。つまり松井が言う「逆」とは立ち位置ではなく“配役”のことで、ちょっとしたブラックユーモアである。それでもまた、駒野はニヤリと微笑むだけで特に何も言わなかった。

 2010年6月29日――。日本にとって4度目のW杯は、駒野のPK失敗によってベスト16で幕を閉じた。打ちひしがれる友に、寄り添う友。2人が涙に暮れるその光景は、あの大会を象徴するワンシーンとして人々の記憶に刻まれている。

かなりショックだった。でも……。

 駒野にとって南アフリカ大会は、'06年ドイツ大会に続く2度日のW杯だった。

「ドイツ大会のオーストラリア戦はあっという間でした。あれだけ早く過ぎた90分間はない。その経験があったからこそ、南アフリカではしっかりと試合に入れたんだと思います。ただ、最後は自分がPKを外して負けたわけですから、忘れられないですよね」

 愚間を承知で「ショックの大きさ」を聞くと、駒野は「かなり」と小さく答えた。

「引きずりましたね。でも、1週間後にはジュビロの始動が控えていたので、そこで切り替えなきゃいけないと思っていました。みんなに(PK失敗のことを)言われることで、逆に前向きになれるかなと」

 チームに迷惑をかけまいとする真面目さも手伝って、燃え尽き症候群に陥ることはなかった。むしろ、その逆。あの舞台には、やり残したことも大きな借りもある。だから迷うことなく、4年後のブラジルを見据えた。

「W杯には、出場してみなければ分からない魅力がありますよね。スタジアムの雰囲気、それから世界トップレベルの選手と真剣勝負できる独特の緊張感。だから自然に、もう一度出場したいと思えました」

 高精度のクロスと両サイドを難なくこなすユーティリティ性は、アルベルト・ザッケローニの目にもとまった。'11年8月、駒野は約10カ月ぶりに日本代表のユニフォームを着てピッチに立ち、以降は“準レギュラー格”としてメンバーに定着する。Jリーグでは'12年シーズンのベストイレブンを受賞するなど、節目の30歳を過ぎてなお国内屈指のサイドバックとして揺るぎない評価を得ている。

もう一度、日の丸を背負って。

 キャラクターは、どちらかと言えば職人気質の今野泰幸や内田篤人に近い。もの静かで口数が少なく、真面目でマイペース。本田圭佑や長友佑都のようにどデカい目標を公言することはないが、内側には負けん気の強さや飽くなき向上心を秘めている。だから密かに、心の中に「よりレベルの高い環境でプレーしたい」という願望を持ち続けていた。過去には海の外に職場を移すことを、現実的な目標として視野に入れたこともある。

「うまくいけば挑戦したいと思っていました。日本代表として世界と戦うと、自然と意識は高くなりますよね。ああいう相手と、ああいう環境で、日常的にやりたい。松井はすごいですよ。10年も向こうにいたんだから」

「日常的に」という願いが叶わなくとも、もう一度、日の丸を背負って世界を体感したい。技術も体力も、精神力も衰えていない。そうした自負があるからこそ、本気で3度目のW杯出場を目指した。

 ところが、'13年6月4日、おそらく決定的に彼をブラジルから遠ざける出来事があった。

「俺がジュビロに行ったら?」

 日本が世界最速でW杯出場権を手にしたその日、指標官はW杯最終予選における招集メンバー26名から、コンフェデレーションズカップの登録メンバー23名を選んだ。駒野は3名の落選組に振り分けられ、ザッケローニに呼ばれて直接その理由を説明された。しかし指揮官の言葉は、駒野にとって「予想外」かつ「ショッキング」なものだった。

「監督と2人で話しました。でも、内容は言いたくありません。いろいろと考えさせられたし、僕にとっては消化するのが難しい言葉でした。去年はいろいろと考えさせられましたね。ジュビロは勝てない時期が続いて、シーズン途中からキャプテンを任されて。いろいろと、考えることが多くなりました」

 所属するジュビロ磐田は'13年シーズンのJ1リーグで17位に沈み、J2降格を余儀なくされた。代表では事実上の二軍で臨んだ東アジアカップでキャプテンを任されたが、9月以降の招集リストに名前はなかった。

「不安はありました。代表に選ばれなくなって、チームはJ2に降格してしまった。だけどそれは、自分の責任でもある。だからジュビロに残ることにしました。代表入りの可能性がなくなるとは限らないので」

 松井から1本の電話が掛かってきたのは、ちょうどその頃である。

「『ジュビロに来てほしい?』とか『俺がジュビロ行ったらどうする?』とか、そんなことを言っていた気がします。「そりゃあ、来てくれたら嬉しいよ』って伝えましたけど」

 松井とチームメイトになるのは、南アフリカ以来4年ぶりのことだった。

燃え尽き症候群になっていた松井。

 南アフリカW杯終了後、松井はしばらく気持ちを切り替えられずにいた。「しばらく」と言っても、1カ月や2カ月の話ではない。

「(大久保)嘉人と同じで、燃え尽き症候群になってしまって。自分の中では、やり切ったという思いがありました。だからその後はサッカーをもう一度楽しみたいと思って、言葉は悪いけど“遊んで”いたんです。W杯が終わって、1年、2年……じゃなくて3年か。その間、ずっとボーっとしながらピッチに立っていた感じですね」

 '06年ドイツW杯のメンバー入りを当落線上で逃した松井にとって、南アフリカW杯は「どうしても出場したい大会」だった。

 世界最高の舞台で、自分の力を示したい。大会のハイライトとして語り継がれるゴールを決めたい。極端に言えば、自分さえ良ければそれでいい。「アドレナリンが出過ぎて、感極まる」。そんな思いでカメルーンとの初戦に持てるすべての力を注いだが、強すぎる思いのリバウンドが大会終了後のモチベーションを著しく低下させた。

「目標がなくなって行き場を失うというか、ピッチに立っているのにそこにいる気がしないというか。ずっと、そういうフワフワした状態だったんですよ。でも、移籍をするとみんなに期待されるじゃないですか。それに応えようとする気持ちだけで、自分を支えていた感じですね」

「松井は終わった」と言われても。

 ザッケローニ体制下では'11年アジアカップでメンバー入りしたが、本心では「帰りたくて仕方がなかった」と振り返る。

「W杯で世界と戦った後に、アジアとやってもしょうがないなって。監督が替わってチーム全体に新たなモチベーションが生まれましたけど、僕自身はそうじゃなかった。気持ちを持続させることの難しさを痛感していたし、所属チームでいろんな問題を抱えていたこともあって、とてもサッカーに集中できる状況じゃなかった」

 南アフリカW杯終了後の松井は、出場機会を求めて移籍を繰り返した。'10年9月にはフランスのグルノーブルからロシアのトム・トムスクヘ、'11年7月にはまたフランスのディジョンヘ移籍。翌'12年9月にはブルガリアのスラビア・ソフィアヘと渡り、さらに1年後の'13年夏にはポーランドのレヒア・グダニスクに新天地を求めた。しかし、監督との相性の悪さや契約問題のこじれ、さらにケガも重なって第一線から姿を消すことになる。南アフリカであれだけの存在感を示した松井の名前は次第に聞かれなくなり、逆に「松井は終わった」とする声さえ聞こえてくるょうになった。

「まあ、気にならなかったですね。僕が何をやっているかを知ってもらえなくてもいいし、何を言われても関係ない。ただ、ポーランドに行った時は燃え尽き症候群からようやく解放されて、もう一度、結果を残したいと思えるようになりました。だから、向こうに骨を埋める気持ちでやっていたんですよ」

サッカーが好きな自分を取り戻したい。

 南アフリカで燃え尽きた気持ちをもう1度奮い立たせるまで、実に3年もの時間を要した。まずはトレーナーと契約して体を作り直すことから始め、本来のキレを取り戻すことに努めた。磐田の加藤久GMから「日本に戻ってこないか」と誘いを受けたのは、ポーランドで半年ほどの時間を過ごし、それなりの結果を残し始めた頃のことだった。

「ジェビロには昔から知っているコマちゃんや(前田)遼一がいる。それに、年齢的にも『まだできる』と思えるタイミングで、もう1度日本でプレーしてみたかった。松井大輔を見たいと言ってくれるファンもいると思ったし、最終的には、サッカーが好きな自分を取り戻したかったんです」

和食で胃腸炎。でも充実感があった。

 '04年以来10年ぶりのJリーグ復帰を決断した松井は、駒野に電話を入れて磐田に籍を移した。

 10年間の海外生活で食生活がすっかり変わっていたとはいえ、和食が原因で2度も胃腸炎を患ったことには自分でも驚いた。しかし、キャプテンとして変革期の真っ只中にあるチームを牽引する仕事には特別な充実感を覚えた。

「4年間、あっという間でしたね。いろいろありましたけど、後悔はしてません。人それぞれ、いろんな生き方がありますから」

どんなに年を取っても、出たい。

 5月12日、ザッケローニが読み上げたブラジルW杯のメンバーリストに、2人の名前はなかった。

 目指したゴールに届かなかった今、1人のプロフェッショナルとして、彼らはどこに向かおうとしているのか。相変わらず小さな声に、駒野は強い気持ちを込めた。

「サッカー選手なので、楽しめないと終わり。だから、より高いレベルでやるという目標を持ち続けたいと思います。今回で終わりとは思いたくないし、まだまだやれる自信があります。諦めたくはないですね」

 松井もやはりW杯への思いを語るのだが、言葉に込めるエネルギーは駒野に比べてはるかに小さく感じられた。それとも、そう簡単に“本気度”を見せないのが松井流か。

「とりあえず、ジュビロで頑張ります。その後はどうなるか分からないけど、4年後のW杯と、オーバーエイジ枠での五輸出場を目指したい。可能性があるものは全部出たいですよ。サッカーをやっていれば、頂点はそこですからね。どんなに年を取っても、出たいと思うのが普通じゃないですか? それでいいと思いますよ、俺は」

(Sports Graphic Number 2014年7月9日臨時増刊号より)

文=細江克弥

photograph by Asami Enomoto