新型コロナ禍が世界中でいまだに猛威を振るう中、それでも徐々にスポーツイベントが帰ってきました。日本ではJリーグがついに再開。NumberWebではこんな時期でこそ、もう一度読んでいただきたい『Sports Graphic Number』の過去の記事(901号「『美しいサッカー』とは、何だったのか」より)を、特別にWeb上にて公開することにいたしました。
 今回は、永遠のカリスマであるヨハン・クライフ自身の言葉で解説する、貴重な「トータルフットボール」概論です。

「今、フットボールの世界はテクニックのレベルが下がっていると思います」

 1999年4月、IFFHS(国際サッカー歴史統計連盟)から「20世紀欧州最優秀選手」に選出されたばかりのヨハン・クライフは、自ら選手として、そして指導者として具現してみせた“スペクタクル”と形容されるフットボールについて、さらには来る21世紀のフットボールのあるべき姿について熱く語った。マネージャーから何度も「時間だ」と催促されても、身振り手振りを交えた熱弁は一向に止まらなかった。

「トータルフットボールの土壌は、もともとあの頃の私たちの中にあったと言えます。それは、攻撃的でクリエイティブなメンタリティーです。私たちには守りを優先するメンタリティーはありませんでした。そこに、ミケルス監督がプロ意識、規律といったものを導入し、チームとしてコーディネイトしていったのです。選手の質も優れていましたから、それは5〜6年のトレーニングを経て、とても攻撃的な戦術として形作られていきました。

 ポジションチェンジを頻繁に行ない、チーム全体がコンパクトにまとまり、ハーフウェイラインを挟んで選手全体の幅が攻撃側に15m程度、守備側も15m程度に保たれ、全体が長く伸びないことが基本です。そのようにして常にアグレッシブに戦っていくことが、当時のイタリアのカテナチオのような守備的な戦術と対照的だったために注目されました」

“アートとファンタジー”香るサッカー戦術。

 前線と最終ラインとの間をコンパクトに保ち、ボールを失った瞬間から厳しいボール奪取とスペースを消す動きが始まる。常に相手を自陣に釘付けにしたまま試合のイニシアチブを握り続ける攻撃的な姿勢を貫く。そう、現在、バルサが実践しているフットボールの原型は、'74年W杯で旋風を巻き起こしたオランダ代表にあり、その中心にいたのがクライフだった。

「コンパクト」を標榜する戦術は、厳しい規律とハードワークが求められるため、しばしば機械的なイメージがつきまとい、アートとファンタジーの香りが乏しくなりがちだ。'74年のオランダもクライフがいなかったら、そうだったかもしれない。当時のチームについて、クライフはこう語った。

「一定の責任、義務を全うする中で自由なプレーをしていく、言うなれば一種のカオスです。規律の行き届いたカオスとでも言うのでしょうか。カオスの中からクリエイティブなものが出てくるのですから、相手のチームは守るのが大変だったでしょう。それを具現化するために重要だったのは、フィジカルよりテクニックとポジショニングです。例えば、ピッチ全体を走り回るのではなく、DFが10m、MFが10m、FWが10mというように、合理的に地域を受け持てばいいのです。優れたポジショニング感覚でこの状態を維持し、ボールの動きに集中してプレーする」

「今のFWは私よりもずっと走っていますね」

「的確なポジショニングとミスのないテクニックさえあれば、選手は長い距離を走らなくでも良いプレーができるのです。仮にプレーする地域の横幅が50mあったとすれば、私たちのチームでは左のウイングが15m、右のウイングが15m、そして真ん中で私が15mくらいしか動く必要がありませんでした。今のFWは私よりもずっと走っていますね」(クライフ)

 当時のオランダ代表にはニースケンスやハーン、クロルなど好選手がそろっていた。その多くが'71〜'73年に欧州チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)を3連覇したアヤックスのメンバーであり、代表チームの戦術イコール、アヤックスの戦術でもあったので、チーム内の共通意識は高いレベルで維持されていた。しかし、カオスとクリエイティブという相反する概念を両立させ、人々を魅了するフットボールを成立させるには、クライフの突出した才能が欠かせなかったことは確かである。

「自身の才能よりもチームづくりのフィロソフィー」

'74年大会の東ドイツ(当時)戦。雨足の強まった天候に合わせてクライフは試合中にスパイクを履き替える。そのとき、彼への密着マークを命じられていたバイゼは、試合が流れているにもかかわらず、タッチライン際に立ったままクライフがプレーに戻るのをじっと待った。長いW杯の歴史の中で、後にも先にもこんな笑い話のようなシーンは他にないであろう。靴を履き替えている間もマークされ続けるほど、クライフは特別な存在だったのだ。

 それでもクライフは、「自身の才能よりもチームづくりのフィロソフィーが果たした役割が重要だ」と語った。ボールを支配し続け、攻撃時間を増やすというフィロソフィーの下、正確なテクニックと的確なポジショニングを身につける育成を行ない、それを具現できる才能を持つ選手を積極的に登用していくこと。決して目前の勝利ばかり求めて走力、体力にものをいわせる選手を重用しないこと。その理念こそが、あのフットボールを完成させたのだと。

「私は17歳でアヤックスの一軍に入りましたが、コーナーキックをゴール前まで届かせることができませんでした。キックカがなかったのです。しかし、当時の指導者は私の資質を見抜いてくれていました。キックカがなくても、試合に出してくれたのです。

 つまり、ポジショニングとテクニックを重視してくれたので、その後の私があるのです。今のアヤックスでは、当時の私のようにキックカがなければ、三軍でしかプレーできないでしょうね」

グアルディオラを見出した時の逸話。

 今でこそカンテラ育ちを重視し、そこから輩出されるタレントがチームを支えることで知られるバルサでも、クライフの監督就任当初('88年)は、育成システムこそ整ってはいたものの、選手を見る視点は自分の理想とは少し違っていたと振り返る。

「それを改革するのも、監督としての私の責任の範疇でした。例えばグアルディオラは17〜18歳の頃、三軍のゲームに出ていました。フィジカルが弱かったからです。しかし私は1年後、彼を一軍に昇格させました。フィジカルの問題よりもテクニックを重視したからです」

 周囲の反対を押し切ってクライフが一軍に昇格させたグアルディオラがその後、選手として、監督として、どのような実績を挙げたかは今さら紹介する必要もないだろう。抜群のテクニックとセンスを持ち合わせながら、小柄でひ弱だった若きグアルディオラを見たクライフは、そこにアヤックス時代の若き自分の姿を重ね合わせたのだ。

「理論派」監督の台頭と、ファンハールヘの怒り。

 クライフ擁するオランダ代表が'74年W杯でセンセーションを巻き起こして以来、オランダが生む「戦術理論」は世界の注目の的となる。そして日本代表を率いたオフトをはじめ、アドフォカート、ヒディンク、ファンハール、ベーンハッカーらオランダ人監督の手腕が注目され始める。ところがクライフは、それら「理論家」の台頭を快く思っていなかったようだ。

「今は、たくさんの本が出てサッカーの理論が花盛りです。そのために、理論先行で経験がないがしろにされています。私は最も重視すべきは実践だと思っています。

 監督としての私を支えていたもので最も重要だったのは、選手としての経験でした。私も選手でしたから選手のことがわかるし、また、選手として私だけが到達できた世界があったことが私なりの指導を形作り、他の指導者との大きな違いになっています」

 クライフは特に「理論派」監督の最右翼、ファンハールに対しては辛辣だった。

 ファンハールは'91年からアヤックスを率いてエールディビジ3連覇を果たす中、'94-'95年シーズンにはCLで欧州の頂点に立ち、さらには'97年にバルサの指揮官に就任すると、いきなりリーガと国王杯の二冠を達成。当時、指導者としてまさに飛ぶ鳥をも落とす勢いにあった。

ファンハールは「指導者としては失格」。

 母国の後輩に対してクライフはこう言い放った。

「ファンハールはバルセロナの“一軍の”監督として、成績ではよくやっているでしょう。しかし指導者としては失格ですね。彼こそアヤックスのシステムを理論偏重に変えた張本人です。そしてそれ以上に大きな過ちは、下部の育成に長けた指導者たちを外したことです。育成には育成の実践があるのです。トップの監督が独裁者になってはいけないのです」

 自分は選手としての経験と実績に基づき、バルサに一軍の結果のみならず育成環境の充実という遺産を残した。その結果、テクニックとポジショニングに長けた選手が継続的に輩出され、チームが披露するスペクタクルなプレーにソシオも満足した。しかしファンハールは結果以外に何を残したのだ、とクライフは憤った。

 人々を魅了するバルサのフットボールを形作ったのは他ならぬ自分だという強烈な自信がうかがえた。

「テクニックが不足しているということ」

 クライフの憤りにもかかわらず、年々、選手1人ひとりのボールキープ時間は短くなり、フットボールはファンハールが得意とするような「約束事」に満ちた組織論が幅をきかせるようになっている。クライフにインタビューした'99年当時、既にその傾向は強まっていた。「プレッシングが厳しくなっている近年のフットボールでは、あなたの現役時代のようにテクニックを駆使しにくくなっているのでは?」という問いに、クライフは間髪を入れずに反論した。

「プレスを受けるのは、テクニックが不足しているということなんです。事前に良いポジショニングをし、優れたボールコントロールができれば、プレスは受けません」

 確かにその通りである。が、それはクライフだから言えることであり、クライフと同等の才能に恵まれねば、理想論の域を出ないのではないか、というのが当時の私の率直な感想であった。

'74年W杯、スウェーデン戦。後に「クライフターン」と名付けられた技が披露された瞬間、観戦していた全ての人が、あるべきところにボールがなくなったことに混乱した。ブラジル戦の1点目、ニースケンスのスライディングシュートを引き出したのはクライフのアーリークロスだった。当時は「アーリークロス」などという表現すらもなかった。そして自らが決めた2点目のジャンピングボレーはW杯の美技、名シーンにリストアップされる

 開催国・西ドイツ(当時)との決勝戦。密着マークをさせれば右に出るものなしとされ、噛みついたら離さないという例えから“テリア”というあだ名までつけられたフォクツを振り切り、西ドイツの誰一人にもボールを触らせないまま開始53秒でPKを獲得した高速ドリブルは、圧巻としか言いようがなかった。

 こうした衝撃的なシーンを次々に見せつけられた末に「テクニックさえあればプレスなど……」と言われても、どの選手にも実践できる理論として安易に同意することはできない。やはりあれはクライフならではの、誰にも再現できない特別なプレーだったと思わざるを得ない。

クライフに匹敵する衝撃はいまだに……。

 あれから17年。

 果たして、プレスなどモノともしない、というテクニックを持った選手が何人、輩出されたのであろうか。

 その筆頭にいるであろうメッシは今、当時のクライフのように変幻自在の活躍を披露してくれている。しかし、彼が「特別」であることは現役時代のクライフと同じである。

 今、クライフの語った「育成環境の充実」は、主要なクラブで推進されつつある。その恩恵で優れた選手が次々に生み出され、確かにレベルの平均値は格段に上がったと感じられる。しかし、あの'74年のクライフに感じた衝撃に匹敵するプレーを披露してくれる選手はなかなか現れない。レジェンドが熱弁とともに残したレシピをなぞってみても、同じスペクタクルは生み出されないのであろうか。真のスペクタクルはレシピの問題ではなく、スペクタクルに相応しいプレーヤーの降臨があってこそのことなのであろうか。

 プレーと同様、人生をもスピーディーに駆け抜けていったフライング・ダッチマンは、今でも「その程度のテクニックではダメなのだ」と天空から苦言を呈しているかもしれない。

(Number901号「『美しいサッカー』とは、何だったのか」より)

文=永井洋一

photograph by ANP/AFLO