北京五輪、準決勝。福原愛があふれる涙を手で抑え、平野早矢香が左手の拳を強く握りしめる。日本のメダルが確定したその瞬間、北京で2人とともに代表だった「秘密兵器」の姿はなかった。

Number989号から連載スタートした『オリンピック4位という人生』を特別に掲載します!

 福岡春菜にとってオリンピックの記憶は長らくプレーそのものではなく、敗れた瞬間の自分の心模様だった。

 なぜあんなことを考えたのか。

 残っているのはそればかりで、どんな球を打ち、どのように敗れたのかはほとんど覚えていない。それだけ自分にとって許しがたく重大で、人生に多くを投げかけた瞬間だった。

「あの最後の一本、私は自分がミスして終わりたくないという、しょうもない考えしかなかったんです。あの瞬間は……、忘れたくても忘れられません」

「あれ、こんなに簡単に負けるの?」

 2008年、北京五輪。

 卓球女子団体の銅メダル決定戦を翌日に控えた夜、福岡は選手村のベッドに入っても寝つくことができなかった。

 頭にあったのは2日前の韓国戦だった。一次リーグ最終戦、日本は完敗した。

「あれ、こんなに簡単に負けるの? というほど何もさせてもらえませんでした」

 日本卓球界にはある期待がかけられていた。それは、20歳になる天才少女・福原愛が初めてのメダルをもたらしてくれるかもしれない、シングルスは無理でも団体ならば……という幻想的なものだった。

 そんな中でライバル韓国に完敗したというのは誤算に違いなかった。ただ結果以上に福岡を苛んでいたのはその内容であり、自分の内面と言ってもよかった。

 平野早矢香と組んだダブルスで福岡はほとんど何もできなかったのだ。

「自分が一番自信を持っているサーブで崩せる気がしなかった。読まれているというか、手の平で転がされているような感じでチャンスボールはほとんどありませんでした。とにかくボールが重くて、重くて……」

 韓国のカットマン・ペアとは五輪の2カ月前に戦ってほぼ互角の勝負をしたはずだった。それがなぜ短期間のうちにこうなってしまうのか。なぜわずか2.7gのピンポン球がこれほど重いのか。相手が素晴らしいのか、それとも自分のせいなのか。

 卓球選手として自分を生かしてきたサーブはいつから死んでしまったのか。

 夜が明ければ、その韓国とのメダル決定戦が待っているというのに、答えが出ない。 頭と心をめぐる思考のパラレルが福岡を寝つかせなかった。

「おもちゃのラケット」の希少性。

「おもちゃのラケット――」

 福岡の愛用するシェイクハンドはそう呼ばれていた。特異なプレースタイルと合わせて「邪道」と言われたこともある。

 ただ稀少性こそ福岡の強さであり、マイノリティーに徹することで這い上がってきた。その象徴が独特のラケットと変則フォームから繰り出されるサーブだった。

 徳島で生まれた小柄な少女はランドセルを背負うよりも早くラケットを握った。

 やがて四国界隈でその名を知られるようになり、12歳で卓上に生きると決心した。

 親元を離れ、全国屈指の強豪、大阪・四天王寺中学の門を叩いたが、待っていたのは冷たい現実だった。リーチもパワーも機動力も自分より上の選手はごまんといた。

『落ちこぼれティーズ』

 強豪校の中で福岡はそう呼ばれる集団のひとりになった。コツン、コツンと床にこぼれた球を拾う日々。

「もうやめよう。徳島に帰ろう」

 部屋でダンボールに荷物を詰めた。

 そんな14歳の春、人生は変わった。

宝物に見えた「PF4」ラケット。

 当時、四天王寺の選手たちが練習のために通っていた「王子卓球センター」。

 福岡はそこでレギュラー選手の練習相手をすることになった。大阪阿倍野区の路地裏に佇む古びた平屋建ての戸を開けると、そこに作馬六郎がいた。

 本業は八百屋の主人。だが、趣味が高じてセンターに通ってくる子供たちを教えはじめ「王子卓球クラブ」をつくると、その選手たちが奇妙なサーブを武器にして全国大会で快進撃を繰り広げたのだ。

 作馬の名は「王子サーブ」とともに卓球界の異端伯楽として知れ渡った。

「私は野球少年がイチローさんに憧れるように、王子クラブ出身の岡崎恵子さん、武田明子さん(ともに元日本代表)に憧れていました。だからあのとき、これだという予感があったんです」

 福岡は作馬に王子サーブを教わりたいと訴えた。そんな何度目かのアタックのときに作馬から「ほいっ」と一本のラケットを渡された。王子サーブを打つための「PF4」というレトロな型のラケットだった。誰かが使ったものだったのだろう。ラケットは古びていて、傷もあった。ただ、福岡にはそれが人生を変えてくれる宝物に見えた。

「ああ、憧れの人たちと同じなんだ。私も同じプレーができるかもしれないんだって、すごく嬉しかったんです」

 事実、その日から世界は変わった。

 他人にあって自分にないものばかりを見ていた少女は、自分だけにしかないものを探すようになった。

「私はラリーを続ければ誰に対しても分が悪いんです。だからサーブから3球までに決める。相手の回転を利用して受けづらい球を返す。それを追求したんです」

磨いた王子サーブと10歳の愛ちゃん。

 当時、多くの選手は強くて速い球を打とうとした。そのためラバーを貼るのに高反発の接着剤を用いたが、福岡は逆にそれを使用せず、極力ラバーを薄くした。

「木の板で打っているような感覚です。まわりがみんな150kmの豪速球を投げている中で、私だけ超スローボールを投げているようなものでした」

 カーン、カーンと強く高い音が響く試合場でひとりパチャン、パチャンと鈍い音をさせて打つ。まわりはそんな福岡と、時代に逆行するようなラケットを「邪道」だとか「おもちゃ」と揶揄したが、福岡はその度に心の中の反骨を研ぎすませた。

「返せるものなら、私のサーブ返してみなよって。内心そう思っていました」

 ボールを身長より高く投げ上げ、屈伸するようにしゃがみこんで打つ。その独特のフォームがリーチ、上背、パワーを補い、驚異的な回転を生み出す。福岡は王子サーブに没頭し、自分のものにしていった。

 当時、王子センターには10歳でプロになった福原愛もサーブを習いにきていた。福岡は練習相手として何度も「愛ちゃん」と対戦したが、一度も勝てなかった。

 自分より4つ下の愛ちゃんは15歳でアテネ・オリンピックに出た。天才少女が歩んでいるのは王道だった。五輪とはそういう人間のものだと考える人は多かった。

 ただ福岡は王道でなくとも五輪へと通じる自分だけの道があると考えることができていた。その道を明示してくれたのが作馬のサーブであり、あのラケットだった。

「団体戦の秘密兵器」

 福岡の名が世に知られたのは22歳の春だった。ドイツ・ブレーメンでの世界卓球。

 国際大会で初めて繰り出した王子サーブは名だたる名手たちを翻弄した。見たことのない回転量と変化に触ることすらできない選手もいた。1つの失格負けを除いて全勝し、団体銅メダルを獲得した。

「ひたすら相手にやりにくいと思わせて勝つ。それが私のスタイルでした」

 邪道が異質という武器になった瞬間だった。相手が福岡のサーブにようやくついてこられるようになったときにはゲームが終わっている。国内でのタイトルはなかったが、海外での勝率は群を抜いていた。そういう点で福岡は「オリンピック団体戦の秘密兵器」と呼ばれるようになっていった。

 いつしか自分の前にあった無数の序列を飛び越えていた。そして北京五輪の4カ月前、熾烈な選考レースを制し、福原、平野に次ぐ3番目の五輪切符を手にした。

「あれは忘れもしない3月8日でした。私がオリンピックに出られるなんて誰も考えていなかった。だから私の中ではもう出られた時点で金メダルだったんです」

最後の1ポイントの直前、弱さが。

 メダルをかけた韓国戦の前夜、福岡が考えていたのはそのことだった。あのときオリンピックは自分だけのものだった。誰が信じてくれなくても、突っ走ってきた。

「それがオリンピックにきて、メダルを背負った途端に息が詰まって、深呼吸もできずにプレーしているようでした。私は愛ちゃんにもさやかちゃんにも一度も勝ったことがなかったので引け目もあって、私が足を引っ張っていると……。途中からは遠くから2人を眺めているような感覚でした」

 気づけばまた、他人にあって自分にないものばかりを見ていた。オリンピックはいつのまに他の誰かのものになってしまったのか……。魔法のラケットはいつからただの木塊になってしまったのか……。そう考えるうち、ほとんど眠れずに夜が明けた。

 試合場へと向かうバスの中でも思考は堂々めぐりを続けた。会場に着き、練習をして、メンバー発表を聞き、そしてVTRを再生するかのように日本はストレートで敗れた。福岡はほとんど何もできなかった。

 韓国選手の打ち返してくる球は最後まで嫌になるくらい重かった。そして最後の1ポイントの直前、福岡は気づいてしまった。

『自分のミスで終わりたくない』

『私のところに飛んでくるな』

 自分の心底に目を背けたくなるような弱さがあることに気づいてしまったのだ。

「終わったあと、ふたりと目を合わせることもできませんでした……。私たち3人は大会中もずっと一緒に仲良く過ごしていましたが、それより一度腹を割って話しあうべきだったのかもしれません。私は一番年上だったのに引け目があって、そういうことも何もできませんでした」

 大会の後、ある関係者に言われた。

『北京は失敗だった――』

 あの瞬間は忌むべき傷痕になった。

北京の記憶に砂をかけ続けていた。

 その後も愛ちゃんや平野とは顔を合わせた。これまで通りに食事をし、カラオケに行き、他愛ないことで笑いあった。ただ北京のことは決して口にしなかった。

「私が戦犯なんだ。ごめんなさい。そういう気持ちもあって……、私は北京の記憶に砂をかけて隠し続けてきたんです」

 ただ砂をかければかけるほど、あの瞬間の傷は乾くことなく、じくじくと福岡の心を侵蝕していった。

 それがあらわになったのは4年後。あの歴史的な日だった。

 ロンドンの舞台に福岡はいなかった。

 アリーナに立ったのは愛ちゃんと平野、そして19歳の新鋭・石川佳純だった。

 すでに代表から外れていた福岡は、彼女たちのプレーを直視できなかった。

「見たくなかった。早く負ければいいのに。正直、そう思っていました」

 内心ではわかっていた。おそらく今回はメダルを取るだろう。断片的に伝わるプレーや表情、雰囲気を見ればわかった。それが余計に福岡の心をくしゃくしゃにした。

メダルをかけた準決勝、ホテルの一室。

 だが、まさにメダルをかけた準決勝、シンガポール戦の日。福岡は胸に啓示のようなものを感じた。

「これは見ないといけない。見ないと一生後悔すると思ったんです」

 仕事で投宿していた東京のホテルの一室。ひとり、テレビ画面の前に正座した。

 福岡の眼前で、あの日を裏返したようなゲームが繰り広げられた。

 眉間にシワを刻んだ23歳の愛ちゃんが一球ごとに叫ぶ。石川が踊るようにステップを踏む。ダブルスで石川と組んだ平野は笑みすら浮かべて冷静に球をさばく。

 そして最後の1ポイントを奪った瞬間、誰もが泣き崩れていた。愛ちゃんが両手で顔を覆って激しく肩を震わせていた。

 しんとしたホテルの一室。気づけば福岡の頬を熱いものがつたっていた。

「ああ、良かったなあって……。北京を引きずっていたのは私だけじゃなかった。みんな4年間、同じ気持ちだったんだ。私はみんなにメダルを取って欲しかったんだなあって、ようやく気づけたんです」

 日本卓球初のメダルを伝える実況の声が部屋に響いていた。その中で福岡はしばらく、自分の心と向き合った。

 すると、部屋の片隅にあった携帯電話がメッセージの到着を知らせた。

 愛ちゃんからだった。

「メダルを取れたのは春ちゃんの……」

 薄闇に光る文字列に手が震えた。

『メダルを取れたのは春ちゃんのおかげだと思っているよ。ありがとう――』

 乾きかけた涙腺が決壊した。熱いものがとめどなく溢れた。しんとした部屋に嗚咽を響かせ、福岡は泣いた。砂に埋めた、あの日の自分に向かって泣き続けた。

「あの愛ちゃんのひと言で、私はようやく北京の記憶と向き合うことができたんです。さやかちゃんは帰国したあと、私にメダルをかけにきてくれました。私は失敗した。ずっとそう考えてきたんですけど、すごいことだったんだなと思えたんです。王子センターに行っていなければ私はなかったし、(石川)佳純ちゃんがもう1年早くデビューしていたら、私はたぶん北京には出られなかった。私の平凡な人生の中で、あれはほんとうに奇跡だったんです」

 今、二児の母として陽だまりの中にいる福岡にはよくわかるのだ。

 オリンピックは誰のものか。人生は誰のものか……。あのラケットは今もケースに入れて大切にしまってある。

福岡春菜(卓球)

1984年1月25日、徳島県生まれ。四天王寺高、日本大を経て、中国電力入社。'06年世界卓球団体戦では5戦4勝と健闘し、日本の銅メダル獲得に貢献。'15年現役を引退、会社の同僚と結婚。現在は育休を取得し子育てに専念している。

 ◇ ◇ ◇

<この大会で日本は…>
【期間】2008年8月8日〜8月24日
【開催地】北京(中華人民共和国)
【参加国数】204
【参加人数】10,942人(男子6,305人、女子4,637人)
【競技種目数】28競技302種目(BMXなどが追加)

【日本のメダル数】
金9個 吉田沙保里(レスリングフリー55kg級)、ソフトボール など
銀8個 男子4×100mリレー、内村航平(体操個人総合) など
銅8個 松田丈志(200mバタフライ)、谷亮子(柔道48kg級) など

【大会概要】
中国で初の開催となり、メインスタジアムの通称“鳥の巣”が注目を集めた。ウサイン・ボルトが100m、200mで世界新記録を達成。オールプロで挑んだ野球・星野ジャパンは4位、金メダルに輝いたソフトボールとともにロンドン五輪以降は競技から除外となった。法華津寛(馬術)が日本史上最年長の67歳で出場したことも話題に。

【この年の出来事】
福田康夫総理が辞任。中国製ギョーザ中毒事件。オバマ氏が大統領選勝利。

文=鈴木忠平

photograph by AFLO