1995年に突如勃発した新日本プロレスvs.UWFインターナショナルの全面戦争は、“史上最大の団体対抗戦”として、今もプロレスファンの語り草となっている。

 永田裕志は、その対抗戦第1弾である9.23横浜アリーナで、若手ながら長州力のパートナーに抜擢され、Uインターの安生洋二&中野龍雄と互角以上の攻防を展開。

 さらに10.9東京ドームでの全面戦争では、第1試合で石澤常光と組んで、金原弘光&桜庭和志と対戦。緊張感溢れる攻防で、10.9のベストバウトと絶賛される試合をやってのけた、対抗戦立役者のひとりだ。

 永田自身「9.23横浜と10.9ドームでのUインターとの対抗戦は、僕の出世試合」と胸を張るが、Uインターとの間には、新日本入団前から縁があった。アマチュアレスリングでオリンピック出場を目指していた頃、「将来、プロに行くならUインター」と考えていたのだ。

大学時代に出会った田村潔司の好印象。

「もともと僕は、『プロレスラーになりたい』という漠然とした思いはあったんですけど、『プロレスをやるなら(第2次)UWFに入りたい』と思ってたんですよ。素人考えですけど、プロレスには覚えなきゃいけないことがたくさんあるな、と。でも、格闘技志向のUWFなら、自分がやってきたアマチュアレスリングをより活かせる気がしたんですよね」

 また大学時代、UWFの選手との出会いもあった。

「当時まだ若手だった田村潔司選手が、ウチの大学(日本体育大学)にアマチュアレスリングを習いにきていて。プロでありながら、アマチュアの学生に頭をさげて必死にレスリングを身につけようとしていたその真摯な姿勢、強くなることへの貪欲さに感銘を受けたというか、惹かれた部分がありましたね」

UWFが分裂、新日本がスカウトに。

 しかしUWFは、永田の大学卒業前に選手とフロントの対立などもあり崩壊。その後、Uインター、リングス、藤原組の3派に分裂してしまう。

「UWFが分裂してしまったあと、練習場所がなくなった田村選手が後輩の垣原賢人選手を連れて、『今、道場がないので、また練習させてほしい』って来たんです。その時、ちょうど冬休みで授業はないし、僕も卒業前で体が空いていたので、監督に言ったら『どんどん使わせなさい』ということで。田村選手、垣原選手がウチに通って、僕がそれを見るようになったんですね。

 なので練習後はたまに食事をしたり、そういった交流もあったんです。当時の僕はオリンピックに出ることしか考えていませんでしたけど、彼らとお会いしたことで、自分の中で眠っていた『プロレスラーになりたい』という気持ちが大きくなっていった気がします」

 その後、田村と垣原はUインターに旗揚げから参加。永田は1992年のバルセロナオリンピック出場に向けて邁進していくが、その夢がついえた時、スカウトに来たのは新日本プロレスだった。

口説き文句は「稼がなきゃしょうがないよ」。

「僕は『オリンピックが終わったら、プロに行きたい』って公言していたんですよ。それを当時、新日本でスカウトを担当していた馳(浩)さんが耳にして。僕が(1992年)3月の全日本大会で優勝した翌日、仲間の応援に会場に行ったとき、ちょうど当時闘魂クラブ所属だった中西(学)さんと石澤(常光)が決勝戦に出ていたんで、馳さんとタイガー服部さんに声をかけられたんです。『プロになるなら、Uインターではなく、ウチを選んでほしい』って。

 服部さんからも『UWFのような月に1回しか試合をやらないところじゃなくて、ウチみたいにドーム大会とかバンバンやるところに来たほうがいい。この世界はビジネス。稼がなきゃしょうがないよ』って、服部さん独特の言葉で口説かれましたね(笑)」

全日本選手権は優勝、しかし五輪枠を逃す。

 ただ、その時はまだ、オリンピックに出場するための最後の世界選考である、4月のアジア選手権を控えていたので、返事は保留していたんです。で、僕は全日本選手権優勝で日本代表まではいったんですけど、アジア選手権で最後の2枠に入ることができず、そのまま帰国したんですよ。

 それで自分のアパートに帰ってきたら馳さんから手紙が届いていて。『結果は大変残念でした。月末にトップ・オブ・ザ・スーパージュニアの決勝が両国国技館であるので、気晴らしに来てみてください』って、3枚くらい招待券が入ってたんです。そうすると、気持ちが傾いちゃいますよね」

プロとオリンピックの両取りを狙った。

 そして永田は新日本プロレス入団を決意するが、理由は馳の熱心なスカウティングだけではなかった。

「プロ入りを決断しながらも、オリンピックに出られなかったことで、僕の中ですごく未練が残っていたんですよ。当時、1991年からFILA国際レスリング連盟が、プロ・アマオープン化を進め始めて、プロになってもアマチュアの大会に挑戦できる状況になってきていたんです。

 なので、今となっては浅はかな考えなんですけど、『闘魂クラブ』というアマチュアのクラブを持っている新日本なら、プロで試合をしながら、オリンピックを目指すことも可能なんじゃないかと思って、馳さんにも相談して承諾ももらっていたんです。まあ、プロもアマもそんな甘いもんじゃないので、結局それは実現しませんでしたけど、そういった思いも新日本を選んだ理由のひとつでしたね」

 そして永田は、1992年のアジア選手権後、新日本プロレスに入団。同年9月にデビューをはたす。新日本とUインターの対抗戦が実現したのは、そのちょうど丸3年後のことだった。

「まさか僕が、Uインターの選手たちと」

「まさか僕が、かつて入ろうとしていたUインターの選手たちと闘うことになるとは、夢にも思いませんでしたね。でも、あの対抗戦は自分にとって、本当にいいきっかけになりました。

 当時、僕は第三世代の中では遅れをとっていたんですよ。中西さんはオリンピック選手だから、早くから上で使われていたし、天山(広吉)選手も海外遠征から帰国後、蝶野(正洋)さんとタッグを組んでメインイベントに出るようになっていた。小島(聡)選手は海外遠征中で、大谷(晋二郎)さんもジュニアで活躍していましたからね。

 そんな中、僕はなかなかチャンスがつかめず、焦りも感じていたんですけど、そんな鬱憤もすべて、あの対抗戦で爆発させることができましたね」

 武藤敬司は、「あの10.9の高田(延彦)戦があったから、今の俺がある」と語っているが、永田裕志にとっても、Uインターとの対抗戦は飛躍の大きなきっかけとなった。10.9ドームはレスラー人生を変える大一番だったのだ。

文=堀江ガンツ

photograph by Essei Hara