「天才」は静かにスパイクを脱いだ。

 Jリーグ再開が迫った7月1日、狩野健太は現役引退を発表した。昨季限りでJ2徳島ヴォルティスを退団。オフに行われたトライアウトにも姿を見せず、無所属のまま半年間を過ごしていた。

 彼はなぜ、いまこの決断を下したのか。そしてこれから先、どのような人生を歩もうとしているのか。「天才・狩野健太」のサッカー人生を振り返りながら、これからの展望を聞いた。

「年が明けた頃は、引退するとは思っていませんでした。今年で34歳になりますが、自分の中でまだまだやれるという気持ちもありましたから」

 2019年12月14日、この年J2を3位で終えた徳島は湘南ベルマーレとのJ1参入戦に臨んでいた。結果は1−1のドロー。J1昇格を逃し、チームは失意のまま徳島に戻った。

 湘南戦の翌日、2019年シーズンの解散式が行われ、そこで狩野は戦力外通告を受ける。

「僕の中では、来年もあるものだと思っていたので、かなりショックでしたね。でも、内心は『これが現実だな』とも思っていたんです」

「契約を更新しない」というチームの通告を予期できたのには理由があった。狩野はゆっくりと口を開いた。

「これ以上負荷を掛けられない」

「実は怪我を抱えていたんです。シーズン中盤からずっと股関節が痛くて、ごまかしながらやっていました。なかなかトップコンディションに戻りませんでしたが、J1昇格に向けて一丸となっているチームの雰囲気を壊したくなかったので、(誰かに言うのは)オフに精密検査をするまで我慢しようと思っていました」

 昨シーズンの序盤こそ出番を得ていたが、中盤以降になるとベンチ外となる日も多かった。貴重な経験を買われてメンバー入りが増えてきた終盤も、出番はごくわずか。それゆえに徳島の判断も理解はできた。

 退団が決まったあと、狩野は徳島の家を引き払い、家族で妻の実家がある神奈川県に居を移した。そこから身体を休ませながら股関節の痛みが引くのを待ったが、一向に鈍い痛みが消えることはなく、1月末にマリノス時代に世話になった医師を頼り、精密検査を行った。診断結果は左恥骨の疲労骨折。彼の股関節は「これ以上負荷を掛けられない」という状態までダメージを負っていたのだった。

「(現役を続けたかったが)トライアウトにも参加できず、この先どうなるんだろうという状況。でも、まずは割り切って治療に専念しようと。焦りがなかったといえば嘘になりますが、もうそうするしかなかったんです」

「違う畑でゼロから」も考えた。

 焦る気持ちを必死に抑えながら治療に当たっていた頃、さらに追い打ちをかける事態となる。新型コロナウイルス感染症拡大の影響でJリーグが中断。数少ないオファーは途端に消え去った。

「1月の段階では複数のクラブからお話をいただいたのですが、(コロナ禍の影響で)それがすべて止まってしまって、条件面も厳しくなった。クラブの財政を考えても、ベテラン選手を新たに取るのではなく、どのチームも若手にシフトしていく。このままではどんなにもがいても辞めざるを得ない状況になるなと。じゃあ、引退となった時に自分は何ができるのか? 自分の人生について考えました。

 違う畑でゼロから社会人になることも考えました。でも、ずっとサッカーをやってきたので、急にやりたいことを考えてもパッと浮かんでくるはずがありません。何をどう考えても、サッカーに出会えたからこそ今の自分があるのは間違いない。だったら、自分がやるべきことは、この経験を次の世代に伝えることなんじゃないかなと。

 ただ、Jクラブのスクールや街クラブといった組織に入って指導者をする選択肢はもちろんあるんですが、いま『自分らしさ』とは何かを考えたとき、何かのメソッドに則ることよりも、これまで培ってきた技術や経験、考え方を子供たち1人1人にきちんと伝えることなのかなと。組織ではなく、個々で繋がっていくほうが自分としてはしっくりきたんです」

才能だけではサッカーはできない。

 狩野は改めて神奈川県の第4種(小学生年代)の現状をリサーチした。全国的に比べてもJクラブや街クラブが多く存在し、選手数も多い神奈川に大きな可能性を感じた。

「チームに所属していながらもスクールを掛け持ちしている子供が多いことがわかったんです。僕もクラブでサッカーをしながら、公園で親や友達とサッカーを楽しんだ思い出がある。小さい頃はそのサイクルが楽しくて、サッカーに飽きたことは一切なかった。

 僕は純粋にサッカーが好きで、少しでも上手くなりたいから毎日ボールを蹴っていただけ。それはプロになってからも変わらなかった。だから、30歳を超えてもプロサッカー選手としてプレーすることができたんだと思う。才能だけではサッカーはできない。技術は毎日コツコツと積み上げるもの。そういうことを子供達に伝えていきたいと強く思うようになったんです」

静学10番。負けてよく泣いていた。

 静岡県静岡市というサッカーどころで生まれ育った狩野は、その中でもエリート街道を突っ走ってきた。ボールコントロールに長け、高いキープ力と鮮やかなパスでゲームを組み立てるエレガントなプレースタイルは、どのチームでも際立った。

 小学生時代から名門・静岡FCでタイトルをほしいままにし、中学は澤登正朗、川口能活、高原直泰、鈴木啓太ら錚々たるOBを輩出してきた東海大一中(現・東海大翔洋中)に進学。中3時には10番をつけてチームを高円宮杯全日本ユース(U-15)準優勝に導いている。

 狩野の名前を一躍全国区にしたのは静岡学園高校時代だ。1年生からレギュラーの座を掴み、2年のうちから10番を託された。

 整った顔立ちもあってか、ボールを持った時には異質なほど気品が感じられる。正確なコントロールに、「そこが見えているのか」と驚かせるパスを出す。セットプレーでのキックの精度もピカイチだった。谷澤達也(藤枝MYFC)、安藤淳(京都サンガ)、小林祐三(サガン鳥栖)ら錚々たる上級生の中でも、1年生が見せたエレガントなプレーは突出していた。

 一方で、記憶に残っているのは涙を流している姿だ。飄々とプレーしているように見えて、試合に負けた時は心から悔しそうな表情を見せ、よく泣いていた。天才的なプレーをするが、サッカーに対する熱い思いを包み隠さず見せられる選手。とても魅力的な存在だった。

キャリアハイは2009年、28試合に出場。

 2005年に大きな期待を背負って横浜F・マリノスに入団。2年目から高い技術に加え、ゲームメイク力が磨かれ、頭角を現した。'08年にはJ2降格のピンチに瀕していたチーム状況の中で、シーズン途中に就任した木村浩吉監督に抜擢されると、第25節のジュビロ磐田戦からスタメンに定着。チームはそこから6戦で3勝3分けと負けなし。その後は勝利に結びつくゴールを奪うなど、残留に大きく貢献した。

 翌'09年にはリーグ28試合出場、4得点。「ついに天才が覚醒か」と周囲は期待したが、いま振り返ると、この結果が狩野にとってのキャリアハイの数字となった。

 そつのないプレーは、時に“器用貧乏”と捉えられることもあり、ベンチを温める時間が増え、スタンドから試合を見つめることも多くあった。それでも狩野は腐らずにコツコツとキャリアを積み重ねていく。しかし、プロ8年目の'12年、狩野のサッカー人生を大きく揺るがす出来事が起こった。

 練習中に負った右足首の捻挫に、ネズミ(軟骨や骨の欠片)が発生した。当時は原因もわからず、捻挫が治ってからもずっと痛みが残った。

「ちょうどベンチ外も増えてきたことで危機感が勝り、誰にも『痛い』と言い出せなかった。無理をすればするほど、どんどん自分の思うようなプレーが出来なくなっていったんです」

 この年、リーグ戦出場はわずかに「4」。スタメンは1試合もなかった。

 心機一転、翌'13年は柏レイソルに移籍を果たした狩野はこの年リーグ戦出場18試合、うちスタメン14試合と復調の兆しを見せた。だが、痛みをごまかしながらのプレーから抜け出せず、その年のオフに除去手術を決断。「これでもう思い切りプレーができると思った」が、それでもプレーをする度に、右足のかかとにわずかな痛みが残る状態が続いた。

戻らなかった右足の感覚。

 怪我との戦いはまだまだ続く。翌'14年はコンスタントに出番を得ていたが、無理がたたったのか、右足の距骨(かかとの上、足首の奥にある骨)を骨折する大怪我を負い、半年の離脱を強いられ、後半戦を棒に振る。ようやく完治した日、久しぶりにボールを蹴ると、とてつもない違和感を覚えた。

「2つの怪我の連続で右足首の可動域が狭くなった。左足のキックの際に右足での踏み込みが甘くなってしまって姿勢が安定しない。右にターンする時も、足首の可動域が狭いので素早いターンができずに、前を向いた時には思い描いていたパスコースが消えてしまったり……。自分の感覚とプレーにズレが生じ始めました。それに……やっぱり右足のかかとの痛みが消えなかった。右足首の甲を下に伸ばしても、上に伸ばしても、かかとに痛みが走る。この痛みが気になって、プレーの精度が落ちていくのが歯痒かったですね」

 本調子から遠ざかった狩野は、3年在籍した柏を離れ、新天地をリーグ初優勝を目指す川崎フロンターレに求めた。だが、彼の足首は自由にプレーすることを許さない。

「今だから言えるんですが、'12年頃からフロンターレの最後の年となった'17年までの6年間、毎日痛み止めの薬を飲んでいました」

 期待に応えられぬまま、契約満了が告げられた。

「我慢の限界」と感じたオフに精密検査をすると、除去したはずのネズミの一部が右足くるぶしの内側の腱に入り込んで引っかかっていた。これがずっと狩野を悩ませ続けた痛みの原因だったのだ。すぐに再度除去手術を行ったが、6年間に渡って庇い続けた右足首の負担への代償はあまりにも大きい。「もっと早くに除去しておけば……」。その後の徳島でのキャリアでも、前述した怪我もあって目立った活躍はできなかった。

家族のために、すべてを妻にぶちまけた。

「現役を続けている以上、人に弱みを見せたくなかったし、期待を裏切りたくなかった。そう思うあまり『自分らしいプレーをするために何をすべきか』を常に考えながらプレーしていたんです。調子がいい時って、何も考えずにやれているんです。それを自分で阻害してしまった。もっと素直に周りにさらけ出していたら、もっと違う人生になっていたのかなと思いますね」

 いつしか「天才」でいることが、自分のあるべき姿になっていた。本当の自分を隠しながら、周囲が、何より自分自身が期待する姿を追い求めた。だが、そこから解放してくれたのは、家族の存在だった。

 昨年11月に次男が生まれた。「引退」の2文字が現実味を帯びたのはそんなときだった。これまで家族にすら一切の弱みを見せてこなかったが、「契約もなくなって、新たなクラブも見つからない状態。今後のことを話さないといけない」と、これまでの思いをすべて妻にぶちまけた。

「『俺は鉄人だから』とずっと言っていたんですけど(笑)、実際に『イメージ通りにプレーできない』、『引退しようか迷っている』と、これまでの自分だったら絶対に言わなかったことを全部ぶちまけたんです。そしたら、妻が凄く嬉しそうだったんです。たぶんすべてわかっていたのだと思います。でも僕から言い出すまで、我慢というか、ずっと気遣ってくれていたんだなということがわかりました。『そんなに無理しなくてもいいんじゃない』と言われたことで抱え込まなくていいんだって心が楽になったんです」

 孤独な時間を過ごしてきたが、最後の最後に、最も信頼のおける家族の前で弱みを認めたことで、自らの道が切り開かれた思いだった。

「継続することの大切さ」

 家族に言葉にすることの大切さと難しさを教えてもらった狩野は、指導者というスタートラインに立つ覚悟を決めた。決して能力に見合ったサッカー人生ではなかったかもしれないが、プロを目指す子供たちに自分の経験は役立つのではないか。自分だからこそ伝えられることがあるのではないか。狩野はそう思っている。

「『才能だけ』と言われるのがずっと嫌で。『ずっと地道な練習をしてきたぞ』って心の中で反発し続けてきた。だからこそ、子供たちにはきちんと継続して練習しないと上手くなれないことは伝えていきたい。ただ理論を教えるのではなく、反復練習で刷り込んでいく作業をしたいんです。

 才能がありながら、地道な努力をできなかった選手は実際にいたし、それが原因で早く辞めざるを得ない状況に追い込まれた選手もいる。周りの期待に押しつぶされた選手もいる。僕が教えられるのは技術だけでなく、継続することの大切さと、あとは心の部分。それを実行することが自分の第二の人生になると思っています」

不完全燃焼の思いこそ、原動力になる。

 現在、狩野は『KENTA KANO private soccer training』を立ち上げ、小学生から大学生に至るまで幅広い選手たちの指導にあたっている。その中にはプロ入りへの可能性を秘めた選手から、まったくの初心者とレベルもさまざま。個人個人に見合ったやり方で、丁寧に、サッカーの楽しさを伝えている。

「子供たちを取った、取られたではなく、この地域に根差しているスクールやクラブと連携をとりながら、全体の底上げをすることができたらなと思っています。多くのJリーガーが辞めた後にスクールコーチに流れるケースがあるのですが、将来的にそういう人たちの受け皿にもなれたらなと思っています」

 怪我と戦いながら積み上げてきた、J1通算148試合13得点、J2通算29試合1得点という数字。最後にプロ15年を改めて振り返ってもらった。
 
「100%やり切ったかと聞かれたら、そうではありません。まだまだやれる気持ちも正直あった。でもキャリア後半の怪我で自分らしいプレーが出せないまま終わったという悔しさは今もあります。ただ、今言えるのはこの不完全燃焼の思いがこれから先の人生の原動力になるのかなと思っています。この悔しさがあるからこそ、次のステップで土台にしたいし、最後にやり切ったと思える人生にしたいですね」

 決して怪我だけが引退の理由ではない。狩野健太が歩き始めた第二の人生は、これまでの道の延長線上にある。目の前にいる子供たちに、天才という鎧を脱いだ自分をさらけ出しながら、サッカーの素晴らしさを違った形で伝えていく。

文=安藤隆人

photograph by J.LEAGUE