「エイドステーションと言うんですね! まさにそれですよ! 今度から私も使わせてもらいます」

 オンラインでつないだ画面越しで興奮気味にこう話すのは、奈良大学教授で城郭考古学を専門とする千田嘉博氏だ。

 千田教授は、緊急事態宣言が発令された翌4月8日に、NHK-BSプレミアムで放送された番組「英雄たちの選択」の中で、“戦国の奇跡”と呼ばれる豊臣秀吉の「中国大返し」について、ある新説を唱えていた。

 番組のHPにはこう書かれている。

<備中高松城から姫路城まで100キロにおよぶ行程を大軍が驚異的な速度で取って返した。いかにして秀吉は不可能を可能にしたのか?(中略)“幻の大返しシステム”の存在が、浮かび上がってきた>

 そのシステムとはどんなものか? それを理解するキーワードが、ウルトラマラソンやトレイルランニングの世界ではおなじみの「エイドステーション」なのだ。そして、その言葉を筆者が伝えたときに、今まで単語としてご存じなかった千田教授の反応が冒頭の言葉である。

 エイドステーションはランナーにはおなじみだと思うが、知らない人のためには「豪華な給水所」という説明がわかりやすいかもしれない。山野を駆けるトレイルランニングでは、100kmオーバーのレースになると、各種の飲食物が用意されるエネルギー補給ポイントとしての役割だけでなく、トイレ、仮眠所、ドロップバッグと呼ばれる事前に預けた荷物の受け取り場所も設置され、テーピングサポートや医療スタッフらも常駐している。

「本能寺の変」からの超展開。

 では、なぜ戦国時代の「中国大返し」を理解するのに、トレイルランニングの言葉が必要なのか。

 豊臣秀吉の「中国大返し」、歴史好きなら知らない人はいないだろう。今年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主役・明智光秀が、主君・織田信長に謀反を起こしたのが「本能寺の変」だ。

 当時、毛利氏を攻めるために岡山にいた秀吉は、その一報を受けると岡山から京都までの約230kmを、わずか10日ほどの超高速スピードで駆けた。そして京都・山崎の地で光秀軍を滅ぼし、信長の仇討ちに成功するのだ。

 230kmという距離をどうとらえるか。舗装されたアスファルトではない山道でも、現代の長距離好きトレイルランナーであれば3日もあれば駆け抜けてしまうため、純粋なスピードという点では驚かないかもしれない。おどろくべきは、鎧を着た1万5000とも3万ともいわれる大軍勢を率いた上で、この高速移動「中国大返し」を成し遂げた点にある。

1カ月かかるはずの距離を10日で。

 千田教授が、当時の光秀と信長をめぐる状況を説明する。

「本能寺の変は、光秀として絶好のタイミングだったはずです。当時、柴田勝家は新潟で上杉勢と対峙しており、信長の三男でもある神戸信孝は四国征伐の途上。そして秀吉は備中高松城を攻め落とすため毛利軍と岡山で交戦中。つまり、当時の京都を中心とする畿内は、信長軍の主だった武将がおらず、ガラガラだったんです」

 光秀は信長の命を受けて朝廷や京都の寺社を担当していた。接待工作をしたり、公家などにも顔の利く立場にいたので、京都市内の動きは手にとるようにわかり、信長の連れる軍勢が手薄なのもわかったはずだ。

 さらに信長討ちが成功をしたあとも、ライバルたちは皆、遠くで敵と戦っている。信長の死の一報が届き、京都に帰ってくるまで1カ月は掛かると見込めば、京都で万全の体制を整えられると光秀は考えたに違いないと、千田教授は解説する。

「光秀にとって唯一の誤算だったのは、秀吉がわずか10日ほどで帰ってきたことです。十分な準備ができないまま現在はサントリーの工場がある京都の山崎で戦になってしまい、敗れた。230kmの距離を何万もの軍勢を引き連れてこんな短期間で引き返してくるなんて思わなかったはずで、秀吉はいかにしてそんな“奇跡”を成し遂げることができたのか、その謎に対して私は仮説を投げかけたんです」

毎日フルマラソンには寝食も必要。

 水攻めの準備と外交交渉を着々と済ませていた備中高松城から、居城にしていた姫路城までの100kmに要したのはわずか2日ほど。毛利軍の追手に警戒しながら、自国領ではない土地を戻っていく最初のハードルを秀吉は切り抜けた。

「休憩や仮眠も挟みながら全行程230kmを実質6〜7日で走破したことになります。少なくとも1万5000の軍勢が毎日フルマラソンをしたことになるわけですから、全員アスリートだったのか!? と思わされますよね(笑)。

 一方で、その距離を移動するためには、食べることも休むことも必要です。さらにたどり着いた先で明智軍と戦うわけですから、京都に着いた時に心身ともにボロボロというわけにはいきません。今でいうモチベーションキープも重要なリーダーの仕事になってきます」

 秀吉は、「ここが勝負所!」とばかりに部下にたらふく旨いものを食わせ、たまには酒も飲ませ、報奨金を先払いにするなどあの手この手で軍勢の士気を保ちながら、京都を目指していった。

「これまでは、こうした秀吉の卓越した人心掌握術と、足軽をはじめとした下っ端連中の根性だけで『中国大返し』はなし得たと思われていたんですけど、私は、合理的なシステムがあったんじゃないかと考えるようになったんです」

信長軍独自の“接待システム”。

 千田教授が新説を考えたきっかけが旧兵庫城の発掘調査(平成25年〜27年)だった。現在は大型のイオンモール神戸南店がそびえ立つその一角には当時の石垣が再現されているが、旧兵庫城の規模感や立地環境に疑問が浮かんだという。

「旧兵庫城は神戸港にほど近い、今でも残っている運河沿いに立地しているんですけど、石垣が二重であったりと、秀吉の時代に拡張工事を行った形跡があった。そしてこれがとても広大で立派な城だったことがわかりました。ただ発掘当初は、なぜここに、これだけの城が必要だったのか不思議だったんです。

 その後、中国大返しのルートとされる旧山陽道(西国街道)に点在する他の城址もリサーチすると、秀吉は城を食料などを備蓄するロジスティック拠点としていたのではないかと仮説が生まれたんです」

 岡山市の東部にある沼城(備前亀山城)、姫路城、兵庫城、そして、兵庫県加西市にある小谷城などがロジスティック拠点として機能していたと先生は唱えた。

 しかし、秀吉はなぜ点在する城に食料などをあらかじめ備蓄させていたのだろうか? 先生は信長軍独特の“接待システム”に目を付けた。

部下には手柄を独占させない。

 本能寺の変から22年前の1560年6月。27歳の若き信長はわずか4000人ばかりの兵を味方に、2万5000人もの今川義元軍に戦いを挑み、勝利した。信長が一躍、歴史の表舞台に立った桶狭間の戦いである。

「信長は桶狭間の戦いのように、自ら最前線に立ち、兵を鼓舞して戦ってきました。しかし、天下人へ邁進する晩年、その戦い方は大きく変化していきます。その象徴が、武田家を追いやった甲州征伐です」

 甲州征伐とは、信長の息子・織田信忠や徳川家康らが武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦のことである。

「最前線を部下に任せていた信長は、戦況がほぼ見えてきた頃に現れ、最後の手柄だけ持ち帰るようになっていました。つまり、部下が手柄を独占することを極度に嫌っていたわけです」

接待の準備が大返しに効いた?

 この話と秀吉のロジスティックシステムとどう繋がるのだろうか?

「甲州に攻め込む途上、信忠は、父・信長を迎え入れるために手厚い接待を行います。武田家を滅ぼしたあと、信長は気まぐれで『富士山を見たい』と言い、家康の領地となった駿河を経由して帰ることになった。信忠の接待の様子を聞いていた家康は、安土城まで戻る道中で信長を大接待します。まさか信長を野営させるわけにはいきませんからね」

 家康は、「建てる」「壊す」「運ぶ」を繰り返すプレハブの仮設小屋システムを開発し、道中の信長接待をやり遂げた。モータースポーツのようなピットインシステムが存在していたかどうかは分からないが、信長が滞在する場所を『御座所(ござどころ)』と呼んだ。

「情報網を張り巡らせる秀吉ですから、信忠と家康が始めたこの『御座所システム』は秀吉の耳に届いていたはずです。『これがニューノーマルになる』と確信した秀吉は、自分の担当する戦に信長を招くときも大接待しないといけないと感じていたはずです」

 時間を本能寺の変の直前に巻き戻そう。秀吉は強敵・毛利軍と対峙しており、信長にお招きの書状を出している。“信長が来る”というビッグニュースを届けることは、毛利軍を威圧するだけでもなく、自軍にも大きな心理的効果を及ぼす。

「信長が備中高松城まで進軍してくる間、その接待拠点と考えたのが先ほどお話をした兵庫城や沼城だったと思われます。信長やその軍勢を受け入れるだけの拡張工事を行い、必要な食料を備蓄し、寝る場所も確保しなければならない。秀吉は進軍しながら同時に、信長用のロジスティックを整える必要がありました」

奇跡を支えたエイドステーション。

 まるで上司の顔色を窺いながら仕事をしているような話だが、思えば、江戸を切り拓き、一大都市を整備した家康のように、土木事業は戦国武将の必須スキルだ。秀吉も清須城修繕を3日で仕上げたという名現場監督としての逸話も残る。

「兵庫城には新たな土木工事を行った形跡もあってなかなか立派な城に仕上げられていたようです。結果的に信長は本能寺の変で亡くなったため、備中高松城まで進軍してくることはなかったわけですが、信長を接待するために準備した『御座所システム』が中国大返しに大きく役立つことになります」

 京都から岡山までの街道沿いに整備された御座所には食料の備蓄はもちろん、拡張工事により数万の軍勢を受け入れるキャパもあった。寝ることもできれば、留守を預かっていた城主たちから手厚いサポートも受けることができた。

「結果的に、この御座所システムが、トレイルランニングにおけるエイドステーションのように機能し、大急ぎで京都に戻る秀吉軍の兵士たちは十分な補給と休息を得られながら引き返すことに成功するわけです」

“戦国の奇跡”といわれる中国大返し。数万の大軍勢が230kmを10日で走破することができたのは、用意周到な秀吉の総合マネージメント能力と合理的なロジスティックシステムが支えた“必然”の結果だったのかもしれない。

(後編は関連記事『中国大返しを伝説にした情報戦と「足軽=トレイルランナー」説。』に続く)

文=山田洋

photograph by Yoshihiro Senda