この度の新型コロナ禍は、人間が近年経験したことがない災難だった。

 終戦前後の野球界について、昔の人が語り継いできたように、私たちも新型コロナ禍で、野球界がどんな風に変わったかを、後世に伝える必要があるだろう。9月19日以降、観客動員の制限は順次緩和されていくが、上限5000人のプロ野球はどんなものだったか、観客の1人として、書いておこうと思った。

 関西在住の筆者は、オリックスの主催試合を8月から10試合ほど観戦した。それは今までの「野球観戦」とは大きく異なるものだった。

 スタジアムに着くと、まず検温をしなければならない。京セラドームの場合、内野席のお客は、普段は大型バスの発着所になっている1階のスペースで検温ゲートを通らなければならない。ここを通らないと、スタジアムには入れないし、当日券を買うこともできない。

検温完了証にアルコール消毒

 そしてゲートを通ると「検温完了証」という小さな紙片を渡される。

 また、大阪府が独自に行っている「大阪府コロナ追跡システム」のQRコードを読み込まないといけない。吉村洋文知事の顔を思い浮かべながら、入力を行い、ゲートに向かう。ここで「検温完了証」は回収される。この小さな紙片の色は毎日変わる。ごまかすことはできないのだ。

 館内に入るときと、客席の入り口で、アルコール消毒を求められる。スタジアム内はピリピリした雰囲気だ。私はこの緊張感は最初のうちだけかな、と思ったが、そうではなく2カ月近く経ってもずっと続いている。

 座席は一列置きに指定されている。また隣のお客とは2席ずつ離れている。ぽつぽつとしかお客が座っていないが、それでも「満員札止め」なのだ。

まるで昭和のパ・リーグのような……

 率直に言うが、筆者は平成この方、こんなにゆったりと野球観戦したことはない。

 プロ野球の観客動員は昨年、平均で3万人を超えた。ぎっしりとお客が詰まった中で観戦するのが当たり前だった。私のようにスコアブックを拡げて観戦する人間は、隣の人に触れないように気を使い、肩身の狭い思いをしていたが、今年はそういうことが一切なくなった。

 昭和のパ・リーグの試合のように、隣の席にモノを置いてゆったり見ることができるのだ。不謹慎ながら「こりゃいい」と思わざるを得なかった。

 ただし、指定の席以外で観戦していると係員が「チケットを見せてください」と言いに来る。そのあたりは厳密に管理されているのだ。

 スタジアム内では観客は飲食の際を除いて、マスクを着用しなければならない。試合中に何回か、警備員が客席の一番前に降りて観客席を見渡し、マスクを着けていない人がいると注意をした。飛行機の客席と違って抵抗する人はいないが、実にモノモノしかった。

ビールの売り子はフェイスシールドを

 ビールや食べ物は販売しているし、ビールの売り子も観客席を回っている。しかし雰囲気は以前とは異なっている。

 筆者はプロ野球のビールの売り子の取材をしたことがある。

 彼女たちはお客の小さな反応を見逃さない。絶妙のタイミングで手を上げ、声をかける。少々遠くてもお客の手が上がったら駆け付けて1杯のビールを売る。その短い交流から「お得意さん」も生まれる。

 営業マンの鑑のような働きぶりなのだが、今の彼女たちは声を上げることはない。フェイスシールドをして黙って客席の間を回っている。なおビールの販売は7回裏までになっている。

 ビールを飲んで気が大きくなったのか、マスクを外して大声で話し出すお客が散見された。ベンチ近くのお客の中には、係員に注意されている人もいた。なお筆者は球場で飲むビールが人生最高の一杯だと思っているが、今は「一杯だけ」と自重している。

「拍手」に想起する芝居の「じわ」

 客席では大きな声を上げることは禁止されている。選手の応援ソングを歌うこともできないし、選手に声をかけることもできない。

 応援は主として「拍手」になるが、私にはこれが実に快かった。好プレーに対して、潮騒のように拍手が起こるのだ。

 芝居の世界では、役者の好演に対して、観客席からため息交じりの拍手が起こる。これを「じわ」といって、役者にとってはお客が見せる最高の評価とされるが、今のプロ野球の観客席は「じわ」に近い反応を見せているのだ。

 内野手が横っ飛びに捕球してぎりぎりのタイミングでアウトにしたとき、打者が外角の球をきれいに流し打ったとき、走者が捕手の送球をかいくぐって盗塁に成功したとき、球場内からは「じわ」に近い反応が起こるのだ。これ、選手にとってもうれしいのではないか。

 最近のプロ野球では、直前の攻撃で殊勲打を打った選手が守備に就くと、観客席がその選手の名前をコールする。選手は帽子をとってお客に応えるのだが、今はそれができないので大きな拍手を送り、気づいた選手がお辞儀をしている。

 声があげられない分、拍手の仕方で観客席はいろんなメッセージを送り始めているのだ。もちろん「応援がしたくて球場に来ている」人が数多くいることは承知しているが、筆者はこのスタイルの方が野球に集中できるし、いいなあと思っている。

打球音や剛速球の音が聞こえる面白さ

 応援がないので、打球音や捕球音がしっかり聞こえる。オリックスのアダム・ジョーンズのホームランは「パカッ」という大きな乾いた音がしてスタンドに飛び込む。集音マイクが音を拾っているのだろうが、実に爽快な音だ。

 巧打者の流し打ちは「カッ」という鋭く短い音。ソフトバンク千賀滉大やオリックス山本由伸の剛速球は「バチャッ!」とミットそのものをつぶすような音がしている。変化球は「ポスッ」とおとなしい音だ。

 昔、長嶋茂雄が「球音を楽しむ日」を提案したことがあったが、その楽しさを実感できた。

ファンを含む全員が「野球を守っている」

 ドーム球場に比べると、屋外球場の規制はそれほど厳しくない。客席の間隔はやや狭いし、係員のマスク着用のチェックはない。それでも検温をしなければ入場することはできないし、ビールの売り子は黙ってビールを売っている。応援歌を歌うことも、大きな声を上げることもできない。

 ドーム球場も屋外球場も、試合が終わると「規制退場」「分散退場」というアナウンスがあり、お客は順番が来るまで席で待っていなければならない。「三密」防止のためだがこれも特別のことだ。

 端的に言えば、今のプロ野球は必死になって「野球を守っている」という印象だ。先日、日本ハムの飯山裕志コーチの新型コロナ感染が報じられたが、外国のプロスポーツと比べても感染者は驚くほど少ない。球団も、スタジアムも、そして観客もプロ野球のために気を使い、我慢をしているという印象だ。

「応援」という調味料がない中で

 ただ「応援」という調味料がほとんどかかっていない今のプロ野球は、茹でた野菜を塩だけで食べるような素朴な楽しさがあるのも事実だ。図らずも「野球観戦の原点」が見えたといってもよいかもしれない。

 5000人の制限が、2万人以下まで緩和されても、応援などの規制は続くだろう。今後もしばらくは「静かなスタジアム」が続く。球団には、そういう状況でファンが離れないのかという懸念もあろう。フルに観客を動員できない状態が続くのなら、チケット料金の値上げも検討しなければならない。

 新型コロナ後の世界は、以前の状態に戻ることはないといわれている。プロ野球の未来について、私たちファンも、選手や球団とともに考えていくべきなのだろう。

文=広尾晃

photograph by Kyodo News