「桑田が1年目の時、軽い冗談で野手に転向したら、って本人に言ったんです。バッティングとフィールディングがあまりに素晴らしいんで。そしたらアイツ、マジでむっとした顔をし、『いや、ボクは絶対ピッチャー1本でやります』って」

 これは30年以上前、原辰徳が『週刊現代』誌上で堀内恒夫と対談した際の発言である。当時29歳のタツノリは「桑田は若いけど放っておいてもやる人間。自分の世界をもう持ってますね。ボクの19歳のころを考えたらすごいと思いますよ」と巨人の新エースを称賛している。そう、沢村賞を獲得した背番号18は、あの頃まだ19歳だった。プロ2年目、前年わずか2勝からの華麗なる逆襲。「1987年の桑田真澄」は誰よりも輝いていた。

球界一のダーティヒーローだった

 若い野球ファンには信じられないかもしれないが、当時の桑田は球界一のダーティーヒーローだった。80年代中盤、日本中を沸かせたPL学園の“KKコンビ”は85年ドラフト会議で明暗を分ける。甲子園歴代最多の13本塁打を放ち憧れの王貞治率いる巨人入りを熱望する清原、甲子園通算20勝も退部届けを出さず早稲田大学進学を表明していた桑田。だが、蓋を開けてみたら巨人はなんと桑田を単独1位指名する。6球団が1位入札した清原は、最終的に西武ライオンズが交渉権を獲得。巨人と盟友に裏切られたと思い込んだガラスの十代のキヨマーは、会見場で悔し涙を滲ませた。

 結果的に、進学を取り止め巨人入りを決めた桑田は、甲子園のヒーローから一夜にして球界のヒール(悪役)になってしまう。プロ1年目は、巨人合宿所の入居時に自室の壁紙をわざわざ張り替え、イースタンの試合後はチームの荷物運びより右肘のアイシングを優先させるゴーイングマイウェイぶりが話題となり、6月の阪神戦で初完投初勝利。試合後のインタビューで厳しい内角攻めについて聞かれ、「内角球を投げちゃいかんという法律でもあるんですか」なんて言い放つ強心臓ぶりを見せるも、このシーズンは2勝1敗、防御率5.14で終える。

 高卒ルーキーとしては上々のデビューとも思えるが、なにせライバルの清原がすごすぎた。

 高卒新人最多の31本塁打を放ち新人王を受賞し、西武も日本一に輝く。オフには“新人類”の象徴として新語・流行語大賞の表彰式に呼ばれ、年上美女とのデート現場をフライデーされ、紅白歌合戦の審査員もタキシード姿で務めた。プロ野球界というジャンルの枠を超え、当時の清原は日本で最も有名な若者だった。

1987年のオフ、桑田に何があったのか?

 同じ頃、桑田は米アリゾナの教育リーグに派遣されていた。その最終日にグランド・キャニオン観光へ連れて行かれるも、本人はまったく乗り気じゃなく、監督に「いくぞ」とバスに乗せられ、ほとんど不貞腐れながら後部座席で揺られていたという。しかし、嫌々ながら見た大渓谷の景色に圧倒され、涙を流しながら己の小ささを思い知る。いわば、世界の広さを知ったのだ。そして、18歳の桑田は「今年は2勝だった。来年8つ勝てばトータルで10勝だ。まず、10勝達成を目指そう」と大自然を前に目標を立てたと自著『心の野球』(幻冬舎)に書き記している。

 逆襲を誓った背番号18を背負う男は帰国後、正月休みを返上して日本球界ではまだ珍しかったウェイトトレーニングを始め、さらに栄養学、心理学、解剖学、運動生理学、メンタルトレーニングに関する本を買い込み独学で勉強した。しかも、プロ入り当初から10年かけて理想のピッチングを完成させたいと、1年目はあえてストレートとカーブだけで投球を組み立てたが、2年目からスライダーを習得し、“サンダーボール”と名付けたスプリットにも挑戦する。俺はこのままじゃ終わってしまう……。元甲子園のアイドルが抱いた強い危機感と覚悟。夜の街の付き合いも煙草も必要ない。友達を作るためにプロ野球選手になったわけじゃない。他人からどう思われようが、俺は俺の道を行く。結果的に1987年のオフは、桑田の野球人生にとってターニングポイントになる。

プロ初完封、初アーチ&4打点のワンマンショー

 オープン戦でプロ入り以来初めて巨人の18番と対戦して、空振り三振を喫した清原は、「これで昨年2勝しかできないなんて、セ・リーグの打者って余程すごいんだなと思った。それほどよかった」とライバルの急成長に驚く。4月1日に19歳の誕生日を迎えた桑田は、オープン戦の勢いそのままに4月14日のヤクルト戦でのシーズン初先発を2失点完投勝利で飾り、そこから破竹の勢いで勝ち続ける。

 なおこの年の5月21日、ザ・ブルーハーツが1stアルバム『THE BLUE HEARTS』で世に出て、5月25日には長渕剛がシングル『ろくなもんじゃねえ』を発売。一方でジャパンマネーの勢いは加速して、安田火災がゴッホの「ひまわり」を58億円で落札、ヤクルトには現役バリバリの大物大リーガー、ボブ・ホーナーがやってきた。写真週刊誌は最大5誌も乱立し、芸能人も野球選手も四六時中カメラに追いかけ回される日々。そんな狂熱の時代に桑田は肩に不安を抱える江川卓に代わり、大黒柱の活躍を見せ、開幕からただひとり中5日でフル回転する。7月8日、札幌・円山球場での広島戦では156球の初完封に加え、プロ初アーチとなる3ランを含む猛打賞でチームの全得点を叩き出す4打点のワンマンショー。20年ぶりに十代での二ケタ勝利を達成した。

 桑田は甲子園で歴代2位タイの通算6本塁打を放ち、86年11月発売の『Number』159号インタビューでは目標にする選手像を聞かれ、「笑われるかもしれませんが、5年目までに2ケタの勝利をあげ、打率が3割、ホームランを10本打てる投手です」と堂々と宣言している。早すぎた二刀流の可能性すら漂わせる野球の申し子(実際に晩年の打者・桑田は毎年のように打率3割前後を記録し、02年の代打起用は今でも語り草だ)。

原辰徳「12球団ナンバーワンじゃないっスか?」

 勝負の夏場、肉体改造で夏用のユニフォームもワンサイズ大きくなり、この7月には3完投2完封で自身初の月間MVPを受賞。後楽園の売店では、3000円の18番応援ハッピが飛ぶように売れた。巨人史上最強助っ人のクロマティは自著『さらばサムライ野球』(講談社)で、若手時代の桑田のバックで守った衝撃をこう書く。

「速球の投げっぷりをみていると、トム・シーバー(メジャー通算311勝右腕)を彷彿とさせる。体つきまで似ている。どっしりとした足腰、マウンドの蹴りかた、態度までがそっくりだ。物静かで堂々とした落ち着きがある。先輩の山倉が出すサインに首を振る度胸もある。日本の若いピッチャーがあそこまでやるのはなかなかだ」

 クロウは言う。「どこかの大リーグチームで桑田を育ててみたいものだ。きっと大物ピッチャーになる」と。原も冒頭の堀内との対談で「三塁から見てると、腕の振りが素晴らしいですよね。ビュッとしなる感じ。だからあの小さな体で速い球が投げられるんでしょうね。腕の振りは今、12球団ナンバーワンじゃないっスか?」なんて絶賛した。百戦錬磨のチームの主力打者たちも脱帽する圧倒的な実力。87年の桑田は前半戦を12勝1敗で終えた。王巨人の球宴前の貯金26の内、11をひとりで稼いだのが19歳の新エースだった。

 オールスター戦では因縁の清原に一発を浴び、さすがに疲れが見え始めた後半戦は5連敗という不振も味わった。それでも、最終成績は28試合、15勝6敗、防御率2.17。最優秀防御率のタイトルを獲得して、王巨人の初優勝の原動力となる。しかも、プロ2年目ながらも68年4月1日生まれという限りなく高卒ルーキーに近い年齢で、身長174cmと体のサイズに恵まれたわけでもない。そんな19歳がリーグ最多の207回2/3を投げてみせたのだ。

桑田コーチは新エースを育てられるのか?

 大活躍のインパクトは凄まじく、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、そして沢村賞を受賞。なお、この年の日本シリーズは西武・清原和博の歓喜の涙や、昭和の怪物・江川卓の現役最終登板として記憶している野球ファンも多いが、翌88年から東京ドームが開場するため50年の歴史を誇る後楽園球場の最後の公式戦でもあった。後楽園ラストゲームの日本シリーズ第5戦、東京ドーム初年度の開幕戦、その両方の先発マウンドに上がったのは19歳から20歳になる頃の桑田である。

 恐るべき十代が江川からエースの座を奪い、リーグの誰よりも投げまくり、1年目の屈辱からの華麗なる逆襲を見せた、「1987年の桑田真澄」の衝撃――。

 そして2021年、52歳になった桑田は62歳の原監督のラブコールを受け、投手チーフコーチ補佐として15年ぶりに巨人のユニフォームを着る。

 令和の巨人軍では、背番号18を絶対的エースの菅野智之が継承している。今オフにはメジャー移籍が再び話題になるであろう菅野は、偶然にも87年の江川卓と同じく今年32歳だ。果たして、桑田コーチは誰に何を言われようが揺るがない断固たる意志を持って、菅野の座を脅かすような、いやその座を奪い取るような煌めく新エースを育てられるのか? 

 そう、あの頃の桑田真澄のように、である。

 See you baseball freak……

文=中溝康隆

photograph by Sankei Shimbun