あれは2、3年ぐらい前のことだったと思う。

 教え子をプロ野球に送り出した高校野球の監督さんから、こんな話を聞いた。

「ある日、そいつから手紙が届いたんですよ。手紙なんか書くんだ、と思いながら読んでみたら、初めてのキャンプの練習がきつくてしょうがないって、泣きの手紙ですよ。きつい、きついって、それしか書いてない。失敗したなぁ……と思いましたね。最後の秋から冬にかけて、もっと追い込んだ練習させとけばよかったなって」

 高校野球の「卒業式」は基本的に夏の大会である。そこが終わると、3年生は現役を退いて、「新チーム」を2年生、1年生に託す。

 それ以降の3年生はというと、それぞれの意思によって、3年の秋を過ごす。

 進学、就職、あるいはプロ入りを視野に、新チームに混ざって練習を続ける者もいるが、その多くが、自らの技量を上げるというより、新チームの後輩たちに対する指導者的な意識で練習に参加しているのがほんとのところだろう。

「プロ行きたいんで、体がなまらないように…」で良いのか

 別の話だが、夏が終わったのに、毎日練習に出てくる感心なヤツ……監督さんからそう聞いて、「プロ一本」だという3年生に声をかけてみたことがある。

「自分、プロ行きたいんで、体がなまらないように、練習しとかないと!」

 殊勝な心掛けだな、と思ったが、次の瞬間、あれっ?と思った。

 プロ行きたいんなら、今よりもっともっと上手くなるための練習やっとかないとダメなんじゃないの、大学、社会人、プロ、言ってしまえば3段階も上のレベルに行くんだから……そう返して、すごくイヤな顔をされたことがあった。

 首尾よくプロに進んだ彼だったが、やがて「支配下」から「育成」に移り、いつの間にか消えていった。

1月の合同自主トレの初日が肝心

 現在、早稲田大学野球部監督の小宮山悟さんが、以前こんな話をされていた。

「1月の合同自主トレの初日、プロの先輩たちに混ざって走ったり、キャッチボールやったり、一緒に練習してみて、これならオレもなんとかやれそうだなぁ……っていう実感を得られるかどうか。そうなるように、高校生は夏から、大学生は秋のリーグ戦が終わってからも、さらにレベルアップできるための練習に励んでほしい」

 この連載コラムでも、前に一度ご紹介した逸話だが、プロで活躍したい学生選手たちにはぜひ肝に銘じておいていただきたい「見識」の1つだと、今も思っている。

「プロの同期との距離感が分からない」

 そしてつい最近のことだ。同じような話が聞こえてきた。

「プロの同期の連中と距離感を保てない、みたいなこと言ってきて。練習がきついとか、精神的にしんどいとか言うヤツはいたけど、人間関係っていうんですか……そっちのほうで、泣きを入れてきたヤツは初めてですね」

「人間関係」って、どうやって鍛えてやったらいいんですか。

 逆に問われて、返す言葉がなかった。

 同じように高校から入った同期を、どう呼んだらいいかわからない。おい、なのか、ちょっとキミ、なのか、呼び捨てでいいのか、それとも「山田君」なのか。同い年でも同期でも、相手はプロにまで入ってきたヤツだ、しかも、高校時代の“実績”は向こうが上なのだから、呼び捨てじゃ失礼だろう。

 またいろいろな誘いに対して、なんと言って断ったらいいのかわからない。断り方がわからないから、とりあえず、いいよ、いいよ……で受け入れて、意図とは違うことで、貴重な時間を使わざるを得ないジレンマ。

 肝心な「野球」ではなく、私生活の煩わしさのせいで、「プロ」がいやになってきた。

 どうやら、そうした趣旨の「泣き」だったようだ。

野球以外の思い出がほとんど出てこない……

 ハタチ近くなって、子供じゃないのに、なにを情けないことを……。そんな「一喝」で片付けられないような気がした。

 高校球児にとってプロのきつい練習も、すごい選手たちばかりのプレッシャーも、そりゃあツラいのだろうが、それ以上に「人間関係」というほとんど経験していないテーマほど高いハードルはないんじゃないだろうか。そこに行き着いた。

 プロに進むほどの球児だ。3年間、野球、野球の毎日だったはずだ。

 家と学校とグラウンド……、極めて限られた人間たちとだけ生活してきた3年間。

 寮生活なら「通学」がないから、出会う人間の数はもっと少なくなる。さらに、学校が「野球部クラス」のような構成なら、3年間、ほぼ野球部員としか交わらない。そんな実態もあると聞いている。

 閉鎖的なんて言ってはいけないのだろうが、私の場合も、あらためて考えてみたら、野球に打ち込んだ中学、高校、大学で、野球部以外の「友だち」はほとんど出来なかった。野球以外の思い出……記憶をかき集めるように当時をたどってみたが、ほとんど何も出てこない。我ながら、ちょっと愕然とした。

球児を野球の現場に閉じ込めすぎてはいないだろうか

 球児たちを、野球の現場だけに閉じ込め過ぎてはいないだろうか。

 野球漬けの3年間の「結果」として、仮に輝かしい偉業があったとしても、それと引き換えに、ハタチ前の青年として当たり前に持ち合わせていなければならない「社会性」という財産を、いつの間にか、彼らはどこかに置き忘れてきてはいないだろうか。

 人間関係のカベに突き当たるのは、プロ野球に進んだ時だけじゃない。進学先や就職先でも、大なり小なり、彼らは同様の戸惑いに悩まされているのではないだろうか。

 意図を察する、汲む、胸を開く、折り合いをつける、清濁合わせ飲む……。言葉はなくなりつつあるが、その「意味」は間違いなく現代にも残っている「人」としての身の処し方。そのへんを、知らず知らずのうちに身の内に取り込むには、ある狭い空間での「経験」だけでは不十分なのではないか。

人の野球をもっと見に行こう

 球児たちを「社会」に放とう。

 冬場のアルバイトはどうか。できれば、部員全員で年賀状配達……よりは、部員一人ひとりが違った「社会」を経験できるような形で。

「そんなことさせたら、何をしでかすか、収拾つかなくなりますよ!」

 実は、球児たちは、言うほど大人たちから信用されてもいない。だからこそ、「社会」の中でゴリゴリもまれる経験が必要なのではないか。

 たとえば、人の野球をもっと見に行こう。

 できれば、大学野球、社会人野球……1つ、2つ上のレベルの野球を見に、もっと球場へ出かけよう。この国の高校野球は、グラウンドにいる時間ばかりが多すぎる。

 球場に行ったら、1カ所にダンゴになって見ていないで、一人ひとりが思い思いの「ビューポイント」で“孤独”になって数時間を過ごそう。球場に数時間、ひとりでいれば、いろいろなことを目にするものだ。

 グラウンドのプレー以外にも、観客たちの態度や行動、そこで働いている人たちのふるまい。あるいはちょっと向こうでグラウンドを見詰めているチームメイトの表情・動き。

 球場への行き帰り、街で、電車を待つ駅のホームで、その電車の中で、手本になる人、ちょっと変わっている人、許せない人……いろんな種類の人を見る。

 無数の「刺激」が、無意識のうちに、その人となりをいつの間にか成長させてくれるはずなのだ。

 少なくとも、私の中には、そうした実感がしっかりと存在する。

 一事に長ずる。

 それは、それで、とても貴いことであろうが、一方で、人間は「人」として生きていく時間と空間を必ず持つことになる。

 世界に冠たる「高校野球」というスポーツ文化の中に3年間いて、「野球しかできません、ほかのことはわかりません」じゃ、あまりにも寂しいだろう。

 今、この時期、新たに3年生になる高校球児たちにとっては、半年先に「甲子園」という偉業を達成させるために励む時期である。と同時に、あとわずか1年先には、なかなかひと筋縄ではいかない「社会」にポンと放り出される直前の時期であることを、「寄り添う」と言っている大人たちもそうだし、何より、その本人たち「球児」が自分で気がつかねばならない。

 そのへんのことで、かつて苦労した先人として、書き記しておきたいと思う。

文=安倍昌彦

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