プロ野球で投手として通算224勝、監督としてもソフトバンクを3度のリーグ優勝と5度の⽇本⼀に導いた工藤公康(61歳)。「このままの生活をしていたら死にますよ」。医者の宣告、転機となった結婚、子育ての苦悩……工藤公康がNumberWebインタビューで明かした「結婚と子育て論」。【全2回の1回目】

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 プロ野球選手として実働29年間。通算224勝を挙げるとともに14度のリーグ優勝、11度の⽇本⼀に輝いたことで優勝請負⼈と呼ばれた工藤公康氏。2011年に引退を表明すると、2015年から7年間は福岡ソフトバンクホークス監督として3度のリーグ優勝と5度の⽇本⼀に導いた。

 選手、監督としてこれほどの功績を残せたのは、類を見ないほど野球に情熱と神経を傾けて膨大な時間を費やしたからに他ならない。現在では球界の常識となったコンディショニングやデータサイエンスの活用を、まだ根性論が主流だった1990年代から積極的に取り入れてきた。

「でも、若い頃の私は、今と真反対の人間でした」

 頭をかいてそのように告白した工藤はなおも衝撃的な言葉を継いできた。

「このままの生活をしていたら死にますよ」

「26、7歳の頃でした。それまで2桁勝ってたのが急に勝てなくなった。世間からは『もう工藤も終わったな』と。新聞にも大洋(現DeNA)にトレードだと一面で書かれました。そんな折でした。球団の健康診断で、肝臓の数値が非常に悪く、お医者さんに『あなた、このままの生活をしていたら死にますよ』と宣告を受けて」

 当時、西武黄金期の中心メンバーだった工藤は若くして好成績を残したこともあり、グラウンド外では豪快な生活をしていた。1日でボトル1本を飲み干すこともあった。それが祟ったのだ。

 さすがに焦ったし落ち込みもした。そんな時期に、工藤は家庭を築く決断をして妻・雅子さんにプロポーズしたのだった。

プロポーズに「妻の反応」

「今年か来年でひょっとしたらクビになるかもしれない。もしクビになったら、田舎に住んで、週末は子どもたちに野球を教える生活をしたい……『それでもいい?』と訊いたら、『野球を辞めて、今のような不摂生をしなくなるなら、それの方がよっぽど良い』みたいな返事をもらいましたね(笑)」

 1989年オフ、26歳の結婚を機に、日常生活とともに野球人生もガラリ一変した。

「妻に背中を押されたんです。『どうせダメかもしれないなら、最後までやるだけやってみたら?』と。言葉では、『あと1年や2年でクビになる』と現実を受け入れたかのように話していても、妻には、私がまだ諦めきれず、もがいて、苦しんでいるように見えたんでしょうね。昔は携帯電話が普及していなかったから、飲みの誘いは家の電話にかかってくる。それを妻が『主人は行かなくなりましたから』『もう行かないんですよ』って全部断っていました。私が横にいても片っ端から電話を切って、『誰から電話?』と訊ねても『え、知らない』って返されました(笑)」

妻・雅子さんの貴重な回想

 雅子さんは当時のことをこう話していた。

「主人はお世話になっている人と言っていましたけど、じつは振り回されているだけだったりするんですよ。でも男の人って照れがあって抜け出せないんです。『じつは必死に野球だけをやりたい』って言えずにズルズル行ってしまう。それを『嫁がうるさくて』という言い訳ができたことで野球漬けにまた戻れたんですよ、きっと」

 また、工藤は29歳の頃に右ハムストリングの肉離れを起こしたことをきっかけに、スポーツ医学の先生と出会い、運動生理学や解剖学も勉強するようになった。野球に情熱と神経のすべてを傾ける原点がそこだった。

「うちは貧乏でした」工藤の少年時代

 そして私生活では結婚からほどなくして第1子の阿須加(現在は俳優)が誕生。その後も子宝に恵まれ、二男三女の父となった。

「私は野球選手だったので家を不在にすることが多く、子育ては妻に頼りっぱなしでした。頭が上がりません。私自身は、子どもに不自由をさせないような父親になろう、と考えていました。それが子どもの頃に誓ったことだったので」

 愛知県で生まれた工藤は、自身もまた5人兄弟で、その4番目として育った。

「うちは貧乏でした。本来は高校にも行けなかった。中学を出たら働けと言われていましたから。特待がなければ進学していませんでした。欲しいものも買ってもらえない。オモチャなんてもちろん、学校で必要な習字道具だって我が家には1つしかなくて。兄が使う日は学校で『忘れました』と何度も恥ずかしい思いをしていました」

 野球で活躍すればするだけ見返りがあるのがプロ。家庭を守り、養うために野球で結果を残すこと。それ以外の考えはなかった。長男・阿須加が生まれた1991年は長いプロ生活の中でも自己最多の16勝をマーク。ここから5年連続で2桁勝利を飾った。

泣く娘を前に「私は何をしているんだろう」

 工藤がとにかく野球に集中できるよう、雅子さんはそのための環境を整えあらゆるサポートをした。子育てに関して工藤は「ほぼ何もしていない」というが、放棄していたわけではない。

「私が多くを干渉することはなかったですが、礼儀、挨拶、人に対する態度は口うるさく言ったと思います」

 ただ一筋縄ではいかないのが子育てというもの。工藤も例外ではなかった。

「2番目の子(遥加=現在はプロゴルファー)までは特に厳しく接してました。私自身が子どもの頃、かなり厳しくしつけられたので。食事をするときは正座でしたし、おはしの持ち方が少しおかしくても怒られました。正直、手をあげられたことも。それで最初の頃は自分がされたのと同じようにするのが子育てだと思ってしまった。でも、ある時に泣きじゃくる娘を前にして、私は何をしているんだろうと心が痛くなったんです。自分が受けた教育をそのままするのは一方的な押しつけでしかないと気づきました。そうやって自問するようになって変わることが出来ましたが」

 厳しい父親というエピソードについて、現役当時の工藤家では登板日にテレビの前では夫人と子どもたちの家族全員で正座をして応援をしていたと、以前見聞きした覚えがあった。

「私自身も聞いた話なので、本当にそうしていたのかは分かりません。ただ、特別な試合の時は、テレビの前で見てくれていたようです。正座はしていなかったようですが……」

妻の思い「声援を浴びる父…子が勘違いする」

 家族が球場に応援に来たこともなかったという。

「妻の話では、私が声援を浴びているのを見たら子どもたちが勘違いしちゃうんじゃないかと。そんな恐怖心から、球場に行くことを許可しなかったようです。ベイスターズに移籍して2年目ごろからかな。球場に子どもたちが見にくるようになったのは。でもその頃は成績的にも下降していて。打ち込まれる私の姿を見て、座席で泣いていたようなんです。別にかっこいい姿を見せたかったとは思いません。ただ、辛い思いをさせてしまったということに胸は痛みますね……」

 工藤自身は、家庭内でのそのような出来事を後々になって知るのが大半だった。

「ただ、それがダメだったとは思いません。そもそも私は家にほとんどいない父親。私がどう向き合うというより、妻の方が子どもたちと一緒にいるわけですから。妻が見てる目の方が正しいんですよ。男の人は女性の尻に敷かれるぐらいが丁度いいんです」

 ユニフォームを脱いだ今、ふと立ち止まってみると様々な気づきと出会う。それは昨年の春のこと。ある現役日本人メジャーリーガーが発した言葉が、工藤の胸に深く突き刺さったのだ。

〈続く〉

文=田尻耕太郎

photograph by Yuki Suenaga