この記事は『フェラーリの歴史上で最も重要な一台?美的アイデンティティーを体現したパワフルな「小舟」』の続きです。

166はすぐに競技で成功を収めた。1948年には、ビオンデッティが166Sでタルガフローリオ(トゥルベツコイと)とミッレミリア(ナボーネと)の二冠を達成。翌年はそれを上回る勢いで、166がヨーロッパの主要イベントを総なめにした。ビオンデッティはベネデッティと組んで166SCでタルガを連覇すると、ミッレミリアでは166MM(0008M)でサラーニと組んで勝利した。また、別の166MMで、ルイジ・キネッティとジャン・ルカがスパ24時間レースを征している。さらにキネッティはそのひと月前に、耐久レース史上に残る偉業を成し遂げていた。
 
166MMを購入した36歳のイギリス貴族、第2代セルスドン男爵ピーター・ミッチェル-トムソン(購入費用は1万7000ドルといわれる)は、その車を売ったイタリア人、ルイジ・キネッティと組んで、6月の戦後初開催となる第17回ル・マン24時間レースに出走した。練習走行で最速タイムを出したタルボをはじめ、ライバルは排気量で上回り、フェラーリに総合優勝の望みはないかに見えた。ところが、キネッティは24時間のうち90分を除く(20分だったという説もあるが、最も長い説を採用しておこう)残りの時間をひとりで走り切るという離れ業を演じて、優勝をもぎ取ったのである。


 
表向きは、セルスドン男爵の体調不良が原因とされている。しかし、練習走行か最初の走行で男爵が怖じ気づき、コースに戻ることを拒んだという疑惑も残る。おそらく真実はその中間にあるのだろう。後者の説は、ほかに目立った成績が知られていないことから来ているが、実はセルスドン男爵は1930〜40年代を通してレース活動を続けており、ル・マンも2度経験があった。1度は"チェーンギャング"・フレイザーナッシュで出走し、2度目の1939年はラゴンダV12で4位フィニッシュを果たしている。いずれにしても、最高でも1時間半の仕事で、その名が優勝トロフィーに刻まれたのは間違いない。また、突飛な考えかもしれないが、男爵の走行時間を最低限に抑えたのは、フェラーリにル・マン初優勝をもたらすための戦略だった可能性もある。
 
イタリア人のキネッティは、1940年にインディ500に出走して以来、アメリカに残って市民権を取得した。すでにル・マンで2勝を挙げており、20年近くにわたって毎年ル・マンに出走した。エンツォとはアルファロメオ時代からの旧知の仲で、間もなくアメリカ最初のフェラーリ代理店となる(これが前述したアメリカ進出の縁だ)。公道とサーキット兼用の166MMがエンツォのプランを体現した車なら、ビジネスとレースの才能を兼ね備えたキネッティは、その人間版だった。やがてキネッティは伝説のノース・アメリカン・レーシング・チーム(NART)を創設することになる。


 
ル・マンとミッレミリアの二冠を達成した0008Mは、ル・マンのトロフィーを載せてパリ・サロンで展示された。翌年、セルスドン男爵はこれをスイスのペーター・シュタヘリンに売却し、166MMは1952年までレースで使われた。次に姿を現したのは15年後で、希少モデル・ハンターのロブ・デ・ラ・リフ・ボックスが入手。そこからアメリカのエド・ボンド、次にカール・ブロスの手に渡り、ブロスが1972年に死去すると、イギリスのバムフォード卿が入手して10年以上所有した。その後、再び大西洋を渡って、トム・プライス、次にボブ・ベイカーがオーナーとなり、1996年にネバダ州のロバート・M・リーのものとなって、現在に至る。


さらなる物語は次回へ続く・・・