社説[上原康助さん死去]基地沖縄の苦闘 一身に

社説[上原康助さん死去]基地沖縄の苦闘 一身に

 元全軍労委員長で衆院議員を10期30年務め、沖縄開発庁長官などを歴任した上原康助さんが6日、呼吸不全のため亡くなった。84歳だった。 康助さんと言えば何をさておいても全軍労である。 復帰直前まで軍職場は県内で最大の雇用の場だった。基地で働く労働者の諸権利は、米国民政府の布令によって大幅に制約されていた。 1950年代前半は特にひどかったという。 同じ仕事をやっても米国人、フィリピン人、本土からきた日本人と地元沖縄人の間には歴然とした賃金差別があった。 反共政策が吹き荒れる軍政下の基地職場に組合をつくるというのは容易なことではない。危険さえ伴う活動だ。幾多の困難を乗り越え61年、全軍労連が結成され、康助さんは初代の委員長に選ばれた。 「上原康助」の名が全国で注目されるようになったのは、B52撤去を求める69年の「2・4ゼネスト」の時である。沖縄全体が歴史の曲がり角に立たされていた。 屋良朝苗主席の要請もあって、全軍労は土壇場でゼネスト回避を決めた。全軍労の決定も大きく影響して復帰協によるゼネストは中止された。 復帰協が「基地撤去」の強い運動方針を打ち出していたのに対し、全軍労の立場は微妙だった。 康助さんはそのことを当時、「撤去と口をそろえて叫ぶことのできない悩み」だと吐露している。 この「悩み」が後々まで全軍労をしばることになる。■    ■ 70年1月、全軍労は大量解雇の撤回を求め、第1波48時間、第2波120時間のストに突入した。 「基地に反対しながら解雇撤回を求めるのはおかしい」との日本政府の世論操作に対し、全軍労は「首を切るなら基地を返せ」と反論した。 この年、康助さんに大きな転機が訪れる。11月の国政参加選挙に社会党公認で立候補し、当選した康助さんは、11月27日、当選したばかりの1年生議員ながら衆院本会議で代表質問に立った。 「沖縄戦で悲惨な犠牲者となった沖縄県民にひとことの相談もなしに、25年余も米軍支配を許した自民党政府の政治姿勢を追及したい」。康助さんの文字通りの晴れ舞台だった。 野太い声、ふんぞり返っているようにも見える歩き方、容赦ない批判。四角四面のとっつきにくい印象を与えもしたが、中選挙区制の下で当選を重ねた。■    ■ 90年代後半、社民党を離れ、「民主リベラル勢力の糾合」を主張し、民主党の県連代表に収まった。 保守系から、大田昌秀知事(当時)の対抗馬として県知事選に擁立する動きがあったのはそのころだ。 2012年5月の復帰40年記念式典で康助さんは、首相や駐日米大使らを前に、強い調子で訴えた。 「なぜ両政府とも沖縄県民の切実な声をもっと尊重しないのか」 政治家引退後、康助さんが公式の場で遺したこの言葉は切実さを増すばかりだ。

スゴ得でもっと読む

スゴ得とは?

関連記事

おすすめ情報

沖縄タイムスの他の記事もみる

九州/沖縄の主要なニュース

沖縄のニュースランキング

ランキングの続きを見る

地域の新着ニュース

新着ニュース一覧へ

人気記事ランキング

ランキングの続きを見る

東京の新着ニュース

東京の新着ニュースをもっと見る

コラム・街ネタ

東京のコラム・街ネタをもっと見る

特集

特集一覧を見る

地域のニュースを見る

地域を選択してください

戻る都道府県を選択してください

記事検索