[迫る惨禍 戦後75年「あの日私は」](1)徳浜弘さん(85)=八重瀬町(旧具志頭村)

 「ブーーーン」

 遠くから、飛行機の鈍い音が聞こえた。空気を伝う振動は、だんだんと大きくなっていく。こっちに近づいて来るのが分かった。

 友軍(日本軍)の飛行機か、はたまた米軍か−。「迷う前に逃げなさい」。1945年3月23日午前、10歳だった徳浜弘さん(85)=八重瀬町具志頭=は、誰かの教えをとっさに思い出し、そばにいた妹の手を取って旧具志頭村具志頭の実家から飛び出した。

 この日、米軍機動部隊の艦載機延べ450機以上が、南西諸島全域を空襲。うち335機は沖縄本島を狙い、徳浜さんが通っていた具志頭国民学校や役場なども灰と化した。

 翌24日は空襲に加え、本島に約700発の艦砲が放たれた。沖縄に配備された第32軍は、米軍が南部に上陸すると想定し、旧具志頭村港川方面の戦闘準備を開始。地上戦の始まりが、すぐそこまで迫っていた。

◆家の斜めに機銃掃射

 「ダダダダダダッ」。艦載機が、家の斜め向かいにあった具志頭共同製糖工場に機銃掃射した。

 米軍の攻撃と確信し150メートルほど離れた自然壕を目指して妹と走った。「ボーンッ」。後方で爆発音が鳴った。怖くて、後ろを振り返ることができなかった。

 あれから75年。これまで表立って自身の体験を語ることはなかった。「戦争の話はしたくない。だけど、これは僕たちしか知らないことでもある」。複雑な思いを抱えながら、今も具志頭に残る壕を訪れた。

◆壕を探し求め転々と

 入り口は2〜3メートル崖下。徳浜さんは妹の手を握って飛び込んだ。「今考えたら、高くて本当に恐ろしい。しかしその時は、それほど命が惜しかった」。すぐそこで起きた爆撃が、岩をたどって入り口まで下る余裕も失わせた。

 奇跡的にけがはなく、母ときょうだい5人で壕に避難。ござを敷いて寝泊まりした。壕内には、日本軍の高射砲が据えられ、すぐ後ろの山には山部隊(第24師団)の陣地もあった。

 4月に入ったころだったか、山が爆撃された。大きな爆発音とともに「地震のような揺れ」が襲った。その後、「高射砲の弾が誘爆すると大変だから」と日本兵に言われ、壕から出た。

 近くにあった別の壕に入ったが、そこにもすぐ、日本兵がやって来た。「軍が使うから明け渡しなさい」。銃剣や日本刀を持つ兵隊の姿を見ると、従わざるを得なかった。

 壕を探し求める中、近くに不発の艦砲弾が落ちたこともある。「もし破裂していたら、皆死んでいたはず」と振り返って思う。

◆父と最後に会った場所

 旧具志頭村新城の壕にたどり着き、身を潜めた。父と最後に会った場所だ。

 日中戦争で徴兵後に帰ってきた父は、沖縄戦でも防衛隊に召集されていた。ある日、父が壕を訪ねて来た。両親がどんな会話をしたか分からなかったが、「自決」のための手りゅう弾を渡して去って行ったと、戦後に知った。

 壕を転々とする中、あちこちに横たわる膨れあがった死体を目にした。「でも何も感じなかった。自分の命が一番だから。人が人でなくなるんだ」

 岩場の壕でしばらく隠れ、6月下旬ごろ、米軍に保護された。旧金武村や旧玉城村に収容され、46年に具志頭へ戻った。

◆ギリギリまで取材を迷う

 父は戦後も帰って来なかった。知人から、旧真壁村(糸満市)で足に重傷を負っていたと聞かされた。遺骨は真壁地区の住民が建立した「萬華之塔」に納められている。毎年、慰霊の日には手を合わせに行く。

 戦後75年がたち、今回、取材を受けようかどうか、ギリギリまで迷ったと徳浜さん。沖縄戦当時を知る人はめっきり減り、体験者として話す責任を感じている。でも「青空の下、普通の生活ができる今の時代に、こんな面白くない話はしたくない」とも思う。

 今は語りたくない気持ちの方が強くなった。「それが戦争なんですよ」。徳浜さんがつぶやいた。(社会部・新垣卓也)

 ◇     ◇

 軍民混在となり、20万人以上が命を落とした沖縄戦から75年。米軍上陸前の1945年3月23日から、沖縄諸島は激しい空襲や艦砲射撃に見舞われた。迫る惨禍を生きた人々の体験を追う。