沖縄県うるま市勝連で自動車整備工場を経営しながら泊高校(通信制)に入学したのは40歳のとき。それから14年かけて卒業し、大学進学の夢を叶えた玉栄登次さん。昨年3月には62歳で琉球大学夜間コース観光産業科学部を卒業しました。

 「子どもの頃は思うように勉強できなかったんです。9人きょうだいの8番目で、サトウキビ農家に生まれたんですが、本当に貧乏で、小1の時から畑仕事を手伝っていましたね。病気がちの母親の苦労をいつも見ていたので、早く楽にしてあげたいとずっと思っていました」

 幼い頃の夢は、大学を出て先生になることだったという玉栄さんですが、少しでも早く働いて母親を助けようと、中学卒業後は愛知県にある石油会社の自動車整備課に集団就職しました。

 「半年後に、第一次オイルショックが発生したんです。賃金のカットに、寮の食事までなくなって。16歳の私には何が起きているかわからなかったし、中卒という劣等感から何も言えず、状況を受け入れるしかありませんでした。上司やお客さんも苛立っていて、理不尽に怒られながら働くのがきつくて、一緒に就職した仲間はみんな辞めていきましたね。それでも休日返上で働くと手当が貰えたので、実家に仕送りをしながらもなんとか生活していました」
 その後、整備士の国家資格を取るため転職。深夜でも構わず仕事に打ち込んでいたといいます。
 「先輩は整備技術を教えてくれないので、見よう見まねで試行錯誤しましたね。失敗を繰り返しながらもできることが増えてくると、だんだんと自分に自信が持てるようになっていきました」

■大人になって気付いた勉強の大切さ

 愛知県で10年間過ごした後、沖縄に帰省した玉栄さんは、結婚し、地元うるま市に現在の自動車整備工場を立ち上げます。

 「とにかくお金がなかったので、壊れた養豚場からトタンを貰ってきて工場を作るところから始めました。最初は大変でしたが、親戚や友人が助けてくれましたね」

 経営は3年ほどで軌道に乗り、多い時には20名ほどの社員を抱えるまでに成長しましたが、1995年頃にそれまで国によって保証されていた整備内容などが規制緩和によって簡素化され、経営は苦しくなっていったといいます。

 「当時は規制緩和って言われても内容が理解できないんですよ。おまけに社会情勢もさっぱりわからないし、口下手で人にも聞けない。その時に『社長が無知ではだめだ。時代の変化に対応していくためには勉強しないといけない』と感じ、高校進学を決意しました」

■40歳で高校生 卒業まで14年

 働きながら通える高校を探し、那覇市にある泊高校の通信制を受験したものの、試験問題が全く解けず失敗。それでも諦めず、1年間塾で必死に勉強し、2度目の受験で合格しました。40歳にして高校生となった玉栄さんでしたが、仕事との両立は想像以上に厳しかったといいます。

 「退社後うるま市から泊への移動だけも大変でした。通信だからといって甘くないので塾にも通ったのですが試験は難しく、70点以下を取ると単位が貰えないんです。持病の腰痛も悪化して9回も入退学していたら、担任から『新記録だ』って笑われましたね。実は校長先生も3回変わったんです。でもどんなに時間がかかっても卒業を諦めようとは思いませんでした」

 玉栄さんの粘り強さと努力が実り、入学から14年が経った2011年にやっとの思いで高校を卒業することができたのです。

■夢の大学進学を実現、その先へ

 その後、担任の先生からの勧めで幼い頃からの夢だった大学進学を決心した玉栄さん。友人からの飲みの誘いも断り、1年間猛勉強の末、琉球大学夜間コースに合格。高校とは比較できないほどのレベルの高さに挫折を繰り返しながらも恩師や社員からの支えを受け、2019年の3月に8年かけて卒業しました。

 「学問に限らず、色んな分野を学ぶことでコミュニケーション能力と考える力が身につくと思うんです。もともと内気で話すのも苦手でしたが、今は上手く会話ができるし、壁にぶつかっても自分で考えて解決策を導けるんです。生まれ育った環境に関わらず、一生懸命頑張ればいくつになってもチャンスがある。それを掴み取るために、日々学ぶ姿勢を忘れないでほしいと思います。63歳で大学院を目指している私を見て少しでも勇気を持ってもらえれば嬉しいです」

プロフィル
 玉栄 登次(たまえ・とつき) 1956年、うるま市出身。琉球大学夜間コース観光産業科学部産業経営学科卒業。うるま市勝連にある南風原自動車整備工場代表。スーパーアドバイザー(準1級整備士)資格保有。現在は大学院進学を目指し勉強中で、最近英語の翻訳機を購入した。

(写真:鬼丸昌範、執筆:らくら編集部 ※この記事は沖縄タイムスの副読紙「らくら」の6・7月号から転載しました)