エンニオ・モリコーネ死去のニュースで、映画、音楽、イタリア好きは悲しみの奈落に沈んでいる。新型コロナウイルスで外出禁止になったイタリアの窓辺で、多くの人がモリコーネの旋律を奏で聴いた記憶は新しい。映画への愛と、時間と記憶が追憶になるまでを描いた名作、『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)で彼の音楽をしのんだ。

 シチリアの小さな村の映写技師アルフレードと、トトという愛称で呼ばれたサルヴァトーレの物語。第二次大戦後の貧しい村で、映画は村民たちの唯一の娯楽。母親に隠れて映画館に通い詰めるトトは、見よう見まねで映写機の扱い方を覚えてアルフレードの仕事を継ぐようになる。青年になると自分でカメラを回すトト。恋をし徴兵され、そして村を出てローマで成功。30年を経たのち、アルフレード死去の報に帰郷する。

 葬儀でアルフレードの棺に従い歩く年老いた人々に懐かしい面影を見て、「トト!」と自分を叱りつけていた大人たちが、自分に敬語を使うことに戸惑うサルヴァトーレ。記憶の底にある生き生きとしたパラダイス劇場は、時代の流れに逆らえず閉館、そして取り壊しに。小さな建物が粉砕される瞬間を見つめる村民たちの表情に、誰もが持っている自分だけの記憶の豊かさと、止められない時の流れの残酷さがにじみ出る。このシーンに流れるモリコーネの旋律に、涙をこらえられる人は少ないかもしれない。

 そしてローマに戻ってアルフレードの形見のフィルムを一人で見るサルヴァトーレは、その中にアルフレードが二人だけの記憶をつないでくれていたことに気付く。歳を重ねて初めて分かる、記憶が追憶に着地する瞬間の、緩やかな安堵感がじわじわと心にしみる。

 作品では、文明の十字路と呼ばれるシチリアという場所が持つ特別な力が存分に発揮され、南北イタリアの相克や、村民の質実剛健な暮らしと、そこから生まれたマフィアの姿も見え隠れし、小さな島の中に歴史、戦争、そして社会的対立のすべてが凝縮されているのが分かる。作中でパラダイス座にかかる作品は、どれも映画好きなら知っている名作ばかりだ。トトが教会でミサの侍者を務める姿、居眠りするトトを叱りつける神父、字が読めない大人たち、「ここは俺の広場だ」とピアッツァを歩き回るホームレス。すべてが愛おしくなり、そしてパラッツォ・アドリアーノの薄暮の風景の美しさに言葉を失う。ちょうど公開から30年あまり。サルヴァトーレの心の動きをそのまま追える鑑賞になる。

Text by coco.g