丹後田辺城二層櫓(京都府舞鶴市)
関ケ原の戦いが勃発すると、 隠居していた細川藤孝は田辺城に入城し、西軍を迎え撃った。

織田信長に対する足利義昭の挙兵、明智光秀が信長を討った本能寺の変、豊臣秀吉死後に起こった関ケ原合戦……。大きな岐路に立たされた時、的確な判断で生き抜いた細川藤孝とは、いかなる男だったのか。

渡邊大門(歴史学者)
昭和42年(1967)、横浜市生まれ。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、(株)歴史と文化の研究所代表取締役。著書に『戦国時代の表と裏』『戦国古文書入門』など、近著に『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』がある。


13代将軍・足利義輝とともに

天文3年(1534)4月22日、細川藤孝は室町幕府の申次衆・三淵晴員の次男として誕生した。母は、12代将軍・足利義晴の側室(清原宣賢の娘)。実父は義晴ともいわれているが、根拠が乏しく疑わしい。

幼名は万吉、のちに与一郎と称した。なお、藤孝は後述するとおり、何度か姓や名を変えるが、本稿では「藤孝」で統一する。

晴員は、和泉半国守護の細川元有の子だった。のちに三淵晴恒の養子となり、三淵を姓とした。通説によると、藤孝は伯父の細川元常 (晴員の兄)の養子になったと言われている(『寛政重修諸家譜』)。

現在、この説は誤りと指摘され、藤孝の養父は足利義晴の近臣・細川晴広だったという説が有力視されている。晴広は同じ細川家でも、傍流である淡路守護家の家柄だった。

また、藤孝の実父の晴員は、元有の子ではなかったという説もある。

同じ時代に、幕臣で三淵孫三郎なる者が播磨国に下向していた。孫三郎は実名が不詳で、『系図纂要』にも記載はない。しかし、当時の三淵家の当主であり、晴員は孫三郎の弟だったと指摘されている。この説が事実ならば、藤孝は和泉守護家の細川氏と何ら血縁関係を有しないことになろう。

天文15年(1546)、13代将軍・足利義藤(義輝)から偏諱を与えられ、藤孝と名乗った。天文21年(1552)には、従五位下・兵部大輔に叙位任官される。

こうして藤孝は義輝に仕えた。義輝が三好長慶と対立して近江に出奔した際は、これに随行したという。『雑々聞検書』などによると、帰京した義輝は永禄8年(1565)1月、4月に藤孝の邸宅を訪ね、猿楽を楽しんだことがわかる。

永禄7年(1564)7月に三好長慶が没すると、畿内の政情に不穏な空気が漂った。長慶の跡を継いだ義継が若年だったため、家臣の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀が補佐した。しかし、やがて三好三人衆と久秀は仲違いし、争うようになった。

その最中に勃発したのが、永禄8年5月の永禄の政変だ。

織田・斎藤の間を取り持つ

永禄8年5月19日、三好義継、三好三人衆、松永久通 (久秀の子)らの軍勢は、義輝のいる二条御所を襲撃。義輝は自ら刀を抜いて戦ったが、最後は力尽きて自害した。

なお、永禄の政変に松永久秀が加わっていたという説があるが、そのときは大和国にいたので、誤りと指摘されている。

義輝が亡くなると、藤孝は京都を脱出。そのまま大和国に急行し、義輝の弟・一条院覚慶(のちの義昭)を興福寺(奈良市)から救い出した。協力したのは、同じ幕臣の三淵藤英、一色藤長、和田惟政、仁木義政、米田求政という面々だった。

その後、義昭は六角義賢を頼り近江国へ逃亡し、和田惟政の居城・和田城(滋賀県甲賀市)に身を置いた。さらに野洲郡矢島(同守山市)に移動し、矢島御所としたのである。

永禄8年8月、義昭は上杉謙信に室町幕府の再興を依頼するが、すぐに実現することはなかった。そこで、義昭は永禄9年(1566)8月に矢島を発し、妹婿の武田義統を頼り、若狭国へ向かった。しかし、若狭は安住の地ではなかった。義統は子の元明と争っており、重臣たちとの関係も良くなかった。これでは幕府の再興が難しいと判断し、義昭は越前朝倉氏を頼ることにしたのである。

実は、本当に義昭が頼りにしていたのは、尾張の織田信長と越後の上杉謙信だった。

義昭の謙信に対する交渉役は大覚寺義俊(義昭の母方の叔父)が担当し、信長に対する交渉役は藤孝が務めた(藤孝の補佐役は和田惟政)。永禄八年に尾張の統一を果たした信長は、同年末には藤孝を通して、義昭に上洛の意思を伝えていた(「高橋義彦氏所蔵文書」)。

ところが、この頃の信長は美濃の斎藤龍興との関係が悪化しており、上洛するには斎藤氏と和睦を結ぶ必要があった。その間を取り持ったのが義昭であり、交渉役が藤孝だった。永禄9年2月以前から、藤孝は信長と龍興の間を取り持ったと考えられ、おおむね同年4月には両者の休戦協定が成立した。

義昭は休戦協定の成立を大いに喜び、藤孝と惟政に手紙を送り、信長の上洛を心待ちにした様子がうかがえる(「和田文書」)。信長の上洛が具体性を帯びてきたのは、同年六月のことだった。

その後、信長の上洛計画は現実的な動きを見せる。『多聞院日記』によると、信長が義昭を推戴し上洛するのは、同年8月22日を予定していたと記されている。

しかし、信長は8月22日に上洛をすることなく、7日後の8月29日に美濃へ攻め込んだ。信長と龍興との和睦を取り持った義昭にとって、信長の行動は青天の霹靂だった。

結局、信長の上洛はご破算になったのだ。失意の義昭は、永禄9年末頃に一乗谷 (福井市)の朝倉氏の庇護を求めたが、義景が上洛に積極的だったかはよくわからない。

この越前において、義昭は、朝倉家に仕えていたといわれる明智光秀と出会ったといわれている。