2020年8月15日、今年もまた終戦記念日がおとずれる。75年前のこの日、日本国民は玉音放送を聞き、戦争に敗れたことを知った。玉音放送を聞いたのは日本国内だけではない。在留邦人もまたおのおのの国で玉音放送を聞くことによって日本の敗戦を知った。そこから帰国するために多くの日本人が命を落とした。

今回は、93歳(当時)の祖母に戦争当時の話を聞き書きし、小説『恋文讃歌』として発表した作家の鬼塚忠氏が、執筆の動機や作品について語った。


祖母にとっては終戦からのほうが苦しかった

私の母方の祖母テルは、戦争が始まる前に、鹿児島で祖父の達夫と結婚し、当時日本領だった朝鮮半島の元山で教員の職を得、2人で海を渡り、働きはじめましたが、終戦となり、命を落としかねない危険なめに遭遇しながらも祖母は無事に日本への帰国を果たしました。

どれだけの過酷な状況に置かれたのか、そしてそこで何が起こったのかを、できるだけ多くの人に知ってほしいと10年ほど前に、祖母のところへ行き、1週間ほど、毎日3時間ほど話を聞きました。

祖母はすでに90歳を超えていたので、はっきりとした記憶をもとに話したわけではなかったのですが、死ぬことさえおかしくなかった当時の体験は記憶に鮮明に刻み込まれていたようで、話はしっかりと聞けました。

夫婦で異国に行ったのに、夫は戦争に徴収され、祖母は一人で異国に住まなくてはならなかったのですが、妊娠中だったので帰国は出来ません。

戦争直後、ソ連兵が町にいなだれ込んできて、略奪の限りを尽くした。その後も朝鮮人たちから復讐を恐れ、すべての財産を捨て、他の日本人たちと、釜山まで歩いて逃げようとしましたが、その距離は距離は東京大阪間ほどあったそうです。実際には38度線を越えアメリカ兵に助けられたといいます。その間に多くの日本人の仲間が死にました。

日本に帰っても、故郷、鹿児島は焼け野原。夫がいつ帰ってくるかもわからず待ち続けました。

この話と、残存する当時の資料と突き合わせながら、小説『恋文讃歌』として世に出しました。