日本の女子プロレス界を築き上げた松永ファミリーの松永健司さんが84歳で亡くなった。健司さん始め、松永4兄弟ら一家で、1968年に旗揚げした全日本女子プロレスを切り盛りしていた。

全日本女子プロレスは2005年に解散するまでに、マッハ文朱さんを手始めに、ビューティ・ペア、クラッシュ・ギャルズらアイドルレスラーを次々とリングに送り出した。37年の歴史の中で、何度も女子プロレスブームを巻き起こした。

ビューティ・ペアが人気を集めた1970年代後半の全日本女子プロレスに身を置いた人から、松永ファミリーの凄さを聞いたことがある。

オーディションに集まる何千人というプロレスラー志望の女子から、金の卵を選び出し、東京・目黒にあった道場&合宿所で育て上げる。「先輩の話は聞け。後輩の面倒は見ろ。同期とは仲良くするな」と、まずは教えられた。

同期は近いうちにライバルとなる。迫力ある試合を展開するには、ケンカするぐらいの方がいいのだ。

道場の上が合宿所だったが、お米は支給されても、おかずが用意されないこともあった。差し入れの肉などがあれば豪華な食事だが、マヨネーズやタバスコをかけて食べる日も、時にはあったようだ。そんな時はツナ缶が助けになった。

「ご馳走が食べたいなら、強くなれ、スターになれ」という教えだった。日々、ハングリー精神を養い、とことんプロ根性を叩き込まれた。

とにかく新弟子を甘やかさない。夢の途中で消えていった者もいた。残ったガッツのある女子たちの適性を見抜き「女子ファンを呼ぶ選手になれ」「男性ファンをひきつけろ」「悪い奴になれ」「歌って踊れるレスラーを目指せ」などと、明確な指針を示したという。

もちろん厳しいだけではない。25歳定年制を掲げたのは「適齢期にお嫁に行けるように」という親心からだった。10代の女の子を預かるのだから「東京の親」である。

「どんぶり経営」と揶揄されもしたが、それは豪快さの裏返し。「だらしない」との批判は、おおらかさのあかし。「計画性がない」のは、ひらめきを大切にしたからだ。

選手たちにも短い選手生活で完全燃焼できるように「今を大切にする」ことを徹底させていた。

経営者というより「興行師」だった松永ファミリー。アメリカもメキシコもプロレスはファミリービジネスで発展させてきた。

今でも多くの全女OGが女子プロレス界を支えている。ハートも体もとことん鍛え上げられているのだから、強く後進の育成にも長けている。松永ファミリーの教えは、しっかりと根付いているのだ。

日本の女子プロレスを一大エンターテインメントに育て上げた松永ファミリーの功績は、永遠に色あせない。

プロレスTODAY編集長
柴田 惣一