<コラム>日本統治初期、青島に日本企業が進出拡大した

<コラム>日本統治初期、青島に日本企業が進出拡大した

ドイツ統治時代(1898年〜1914年)、青島は「要塞貿易都市」であったが、日本統治時代になると「工業貿易都市」として大変換を図った。その期間は1914年11月〜1922年12月までのわずか8年である。ドイツの都市開発は大鮑島区を北限(現在の膠州路)とし、その北側は手付かずであった。また産業として興したのは、青島ビール工場(写真1)程度であったの対し、日本守備軍はこの地域に「金融地区」「住宅地区」そして「台東鎮工場地区」、更に北部に「四方・滄口工場地区」を建設した。現在の中山路(静岡町)を北に向かうと、堂邑路・館陶路(いずれも山東町)になる。その北に大港駅があり、その東の貯水山(若鶴山)にかけて日本人町が形成された。1919年、貯水山に青島神社が創建され、現在の遼寧路(若鶴町)周辺が大きく発展した(参考:青島物語続編)。

大正4年(1915年)、青島日本守備軍は日本企業の工業立地を推進するため「都市開発計画」を策定、台東鎮地区へ企業誘致を行った。若鶴町(奉天路・吉林路と命名、現在は遼寧路)沿いに日系企業が展開した。その後、若鶴町から南北に、弥生町(華陽路)・千島町(曹県路)・品川町(青海路)・大川町(昌楽路文化街)・巽町(登州路)・老松町(寿光路)と広がって行った。

1918年(大正7年)青島要覧から当時進出した日系企業名を見る事ができ、現在はどうなっているか現地調査することにした(地図1)。道路は当時のままで、工場の大半は住居や商業施設に変わっている。華陽路交差点南に山東製軸の事務所跡と思われる建屋がその当時からの石段とともに確認できる。遼寧路を東に行くと、日本金属工所の事務所棟を見る事ができ、その東に東洋製油会社の工場建屋を確認できる。遼寧路対面は現在、青島天幕城となって中に紡績博物館があるが、ここは青島糸廠であった。1929年、青島糸廠閉鎖時に労働運動が発生したことが当時の新聞(昭和4年7月21日)に出ている。「青島糸廠は信州片倉組の分身、日華産糸(株)が母体、中国名青島糸廠、資本金250万円、大正9年(1920年)7月1日操業開始、職工1200名。昭和4年7月20日に男工689名、女工74名を解雇したことから労働運動が始まった」と記載がある。その後、隣接する大日本麦酒会社がこの土地を購入した。

華陽路(弥生町)沿いにも、長瀬青島工場跡や山東火薬工廠の煙突や青魯蝋寸工場跡が確認できる。その1ブロック北にタバコ博物館がある。山東葉煙草会社の位置と道路の反対面になる。青島麦酒東隣の大川町に、山東油房跡を見る事ができる。台東鎮に進出した企業は、主として絹織物産業と油房(落花生や牛脂から搾油)、マッチ木材、煙草産業に金属加工業になる。

遼寧路が諸城路×台東路と交わる付近に1915年に中華民国で最初に創建された台東鎮神社があった(写真2)。現在は商業ビルとなり、神社痕跡を見つけることはできなかった。


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